平生生平(平生、生平)(「訂訛類篇」)
平らかに生平を生く、と読んではいけないんです。

今日は宇宙の日でパラ。知ってた?
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平生平日也。
平生は平日なり。
「平生」というのは、いつもの毎日、ぐらいの意味である。
生平一生也。
生平は一生なり。
「生平」というのは、そのひとの一生、の意味である。
唐の孔安国は
平生猶少時也。
平生はなお少時なり。
「平生」というと、「若いころは」と言っているのと同じである。
と「論語」に注したが、朱子は否定して、
平日也。
平日なり。
普段どおりの一日のことじゃ。
としている。それが正しい。
ところが、
今人応用生平処、混用平生、応用平生処、混用生平。若通融者、此大繆也。
今人、まさに生平を用うるべきところ、平生を混用し、まさに平生を用うるべきところ、生平を混用せり。もし通融せんとせば、これ大繆なり。
いまのひとは、「生平」(一生の意)というべきところ「平生」とも書いてまぜこぜにしている。「平生」(平日の意)というべきところ「生平」と書いてまぜこぜにしてしまっている。
杜子昂の「客を送る」の詩に、
江南多桂樹、帰客贈平生。
江南には桂樹多く、帰客に平生に贈らん。
ここ江南の地には香りよい「桂」の木が多いから、河北の郷里に帰りゆく人に、「平日」に届くよう贈ろう。
「なんや、これ」
明の楊升庵が「難通」(通じ難し、理解ができない)といって悩んでいた句だが、
後見善本是生平、心乃帖然。可知随意顛倒之不可矣。
後に善本を見るにこれ「生平」なれば、心すなわち帖然。随意に顛倒するの不可なるを知るべし。
後に原本に近い写しをみたところ、「平生」ではなく「生平」であった。
つまり、
「桂の木の香りを、生涯贈り続けよう(≒君は生涯忘れることができるまい)」。
だったので、心がスッキリしたという。勝手に文字をひっくり返してはいけないのだ、ということがよくわかるであろう。
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清・杭世駿「訂訛類篇」巻一より。こういう知識を得ると、自分が賢くなったような気がします(こういう知識も)。え? そんなに賢いのにまだ賢くなるのか? なんでにやにやと冗談めかして言うのか知りませんが、ほんとですよね。そろそろもう考えたり知ったりしなくてもいいような気がする。じっと一点を見つめてぶつぶつ言っていればいいのでは。忙しくて困っています。仕事ではないんです。昼間居眠りもできないから今眠くてしようがない。
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