僅一木榻(僅かに一木榻のみ)(「墨余録」)
わたしも、能力以外はだいたいこんな感じなんです。

いよいよ旧盆の入りでカッパ。たくさん帰ってきているカモ!
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清末に近い19世紀の後半、浙江に倪克譲という有名人がいた。もともと神童といわれるような賢い子どもだったが、少年時代に科挙試験用の文章の勉強をさせたところ、どうも熱心ではない。
おやじは村で人に学問を教えていたが、
頗好奕。克譲従傍観、即知虚実、先後、進撃、退守之法、曰、是無難也。
頗る奕を好む。克譲傍より観て、即ち虚実、先後、進撃、退守の法を知り、曰く、「これ難無し」と。
たいへん碁が好きであった。克譲ははたからおやじの碁を見ているうちに、かけひきやら手順やら攻撃・守備の極意などを知ってしまい、「これはあまり難しくないな」と言い出した。
「倪のぼうずはえらい自信じゃのう」
人戯与奕、輒為所勝。
人、ともに奕を戯るに、すなわち勝つところと為る。
いろんな人が克譲と碁を打ってみたが、どんな相手にも勝ってしまうのである。
遇疑難処、毎翹首観天、及落子而人皆不能応。其技蓋由天授、非学力所致也。
疑難の処に遇うに、つねに首を翹(あ)げ天を観て、子を落とすに及びて、人みな応ずる能わざるなり。その技はけだし天授に由り、学力の致すところに非ざるなり。
難しい場面になると、いつも頭を挙げて空を見つめ、やがて石を置くと、相手は誰も対応できないようなすばらしい手を見せるのであった。ひとびとは、彼の碁は天の与えるインスピレーションによるのであって、人間の努力とは関係ないんではないか、と言うのであった。
そのころ、都・北京でも碁が流行っていた。
公卿亦多能手、有某閣部者、奕品称第一。過雲閣、聞克譲名、召与奕、竟日終二局、而閣部連負、倪之名乃更大噪。
公卿また能手多く、某閣部なる者有りて、奕品第一を称せらる。雲閣を過ぎるに、克譲の名を聞き、召してともに奕をするに、竟日にて二局、閣部連負し、倪の名すなわち更に大噪せり。
おえらい方々にも碁の上手がたくさんいたが、特になんとかさんという閣僚が、「碁の能力第一なり」と称賛されていた。このひとが浙江の町を通ったとき、克譲の名を聞き、呼んで碁を打った。一日中かけてやっと二局終わり、どちらも閣僚の敗北になったので、倪の名前はさらにあちこちで騒がれるようになった。
セレブになれそうになってきたのです。
しかし、
賦性特異、既不屑治生、亦終不娶家室。所居僅一木榻、日惟危坐、対客常不交一言。人遂目之為痴。
賦性特異にして、既に治生に屑(いさぎよ)しとせず、またついに家室を娶らず。居る所には僅かに一木榻(もくとう)のみにして、日にこれに危坐し、客に対するにも常に一言も交えず、人ついにこれを目して痴と為す。
うまれつきの性格が少し変で、いつまでも財産を作る気は無く、また結婚して家庭を持とうともしなかった。住んでいる場所は一台の木製の長椅子(ベッドにも使えます)があるだけで、一日中彼はここに正座して坐っており、お客人が来ても一言も会話しない。ひとびと(俗物ども)は、彼のことを「あほう」に分類するようになった。
暮年技益精、大江以南無与敵、迹其操行孤潔、豈非奇士哉。
暮年技ますます精にして、大江以南ともに敵する無く、その操行の孤潔なる、あに奇士にあらざらんや。
晩年になるとわざはますます研ぎすまされ、長江以南には敵は無いと言われたが、その行動や思想の孤独で潔癖であること、まさに「変な人」と言わざるを得ないだろう。
友人の童菽原が言うには、
有絶芸者、必有奇行。倪之孤潔尚矣。余尤服其与閣部奕而竟不稍譲。近人豈易得此。
絶芸者有れば、必ず奇行あり。倪の孤潔尚ぶべきなり。余もっともその閣部と奕してついに稍も譲らざるに服す。近人あにこれを得やすからんや。
何かに飛びぬけて通じたひとは、必ず変な、誰にもできないような行動をするものだ。そのなかでは、倪克譲の孤独と潔癖は実にすばらしい。中でも、わたしは、彼が閣僚クラスの人と対局して、少しもわざと負けたりしなかったことが、もっともすばらしいことだと思う。現代のひとにはなかなかこんなことはできないよ。
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清・毛祥麟「墨余録」巻四より。現代では、「カネだけ、今だけ、自分だけ」の新自由主義道を究めなければならないのが我々人類の勤めだとわかっていますから、このような「孤潔」は許されませんが、当時の東洋では許されたのでしょう。わたしも碁は打たないだけで大体こんな暮らしなので反省しなければなりません。---待て待て、「何物も作りださないひと(IT,金融、資本家)が一番リスペクトされる」世の中なのに何故わしのような生産能力の無い者が反省しなければならないのじゃ? もっと尊敬されるべきでは?
ここでは、職人のような資料づくりがなされているようです。
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