当無出理(まさに出理無かるべし)(「袁中郎尺牘」)
もう立ち直る能力も理由もありません。あと数日で涼しくなるそうだが、その前にへたりました。防災の日です。みなさんいろいろありがとう。

これ見たら元気になりはるんとちゃうコン?
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明の萬暦年間、浙江・呉中の県令になって役人活動実施中のころ、
呉中人無語我性命者、求以明先生一毛孔不可得。甚哉法友之難也。
呉中の人、我に性命を語る者無く、以明先生の一毛孔を求むるも得べからず。甚だしいかな、法友の難き。
呉中(は都会で人は多いのですが、そこ)の人には、わたしに人間の本質(「性」)や人間の為すべきこと(「命」)について語ってくれる人は一人もいない。王以明先生の毛穴一つさえ探しても得られないのだ。ほんとうにすごいことである、ともに教えを求める友の得難きことは。
そうですか。
游客中可語者、屠長卿一人、軒軒霞挙、略無些子酸俗気。余碌碌耳。
游客中に語るべき者は、屠長卿一人のみ、軒軒として霞挙し、略(ほぼ)些子(すこ)しの酸俗気無し。余は碌碌たるのみ。
寄宿している文化人で語るべき者は、屠長卿さんだけだ。朝雲が昇るような人柄で、ほぼわずかな酸っぱい俗気が無い。ほかのやつらは石がごろごろしているようなものだ。
夫呉中之詩画如林、山人如蚊、冠蓋如雲、公庭私室非套則諛。一袁中郎能堪幾許煎爍。
それ、呉中の詩画は林の如く、山人は蚊の如く、冠蓋は雲の如く、公庭・私室は套にあらざれば即ち諛(へつらい)なり。一袁中郎のよく幾許(いくばく)の煎爍(せんしゃく)に堪えんや。
「套」(とう)は「大」と「長」から成り、「大きい」「覆いをする」「覆い、かぶせるもの」の意ですが、「重ねてまねをする」という意味を派生します。「常套手段」とか「旧套に属する」と使うときの「套」です。ここは「ひとまね」ぐらいの意味でしょう。
されさてここ呉中は大都会、詩画の掛物は林のようにたくさんあるが、山中に隠れる人は蚊のように小さく物蔭におり、冠や帽子をかぶった富貴の方々は雲のように多い。住居といえば、公の場も私の部屋も物まねでなければご機嫌取りにしつらえられている。この袁中郎一人で、これらのものに焼かれ炙られていつまで耐えていられるだろうか。
油入麺中、当無出理。雖欲不堕落、不可得矣。
油の麺中に入れば、まさに出づるの理無かるべし。堕落せざらんと欲すといえども、得べからざるなり。
とろりとしたあぶらを小麦の粉に入れて麺を作ると、もう油だけ分離させる方法はあるはずがない。わたしもこの地で、文化的に堕落しないでいようと思ってももうダメだ、ダメなのだ。
完全に堕落してしまう前に、郷里の湖北に帰りたいんだそうです。
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明・袁宏道「与王以明」(「袁中郎尺牘」所収)より。王以明は袁氏兄弟のいとこで、いろんなことを手ほどきしてくれた先輩です。特に王以明は妓女好きで・・・ほんとですよ。古典・漢文・東洋と「三不信」の塊のような文化なので現代の皆様には信用いただけないかも知れませんが、王以明は最後は貧窮して死に、袁宏道は「花柳病」であろうと推断している。
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