泣涕漣漣(泣涕、漣漣たり)(「象山先生詩抄」)
自分の経験に照らせばひどい暑さで、観ネコは中止(ネコもしんでるでしょう)し、歩くのを止める、くらくらしてきて日陰で休む、などの被害は受けたが、温暖化の進んだ未来のみなさんから見れば「その程度の暑さでへばっていたのか、むかしの人は」「やはり劣っていたんだなあ、AIも使いこなせずに」「わたしたちは進化してるのよ、おほほ」と笑い物にされるぐらいの大したことのない暑さでしょう。

人生百年ぐらいあるかも知れないので、沖縄や津軽ではなく京都や大阪観光にでも行ってくるか、そのうち・・・と思いましたが、万博とかインバウンドとか移民とか攘夷とか天誅とかこれからどんどんヤバくなってきそうなので、奈良だったら大丈夫かなー。
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夏休みが終わる日である。若い者(子どもたちなど)は宿題するのたいへんだなあと同情します。しかしわしら妖怪には宿題などないのじゃ、ひっひっひ・・・と思ってたら、七月三日(木)に途中まで紹介して平日だったので後の宿題にしてしまっていたのがありました。「あと四行・・・」と言ってた後四行を紹介して、夏休みの宿題を残さないようにせねばなりません。
前回は「天皇のおられる京都のことを思うとためいきが出る」というところで終わってましたが、
五)憂思如燬、其誰知之。悲憤如噎、其誰思之。
憂思は燬(や)くが如きも、それ誰かこれを知らん。悲憤は噎(むせ)ぶが如きも、それ誰かこれを思わん。
憂い心配する気持ちはまるで燬け付くようだが、誰がそのことをわかってくれようか。悲しみ憤慨する心はむせび泣くかのよだが、誰がそのことを気遣ってくれようか。
六)人不我諒、請勿復敢思。人不我信、請勿復敢悲。
人、我を諒とせざれば、請う、また敢えて思うなかれ。人、我を信とせざれば、請う、また敢えて悲しむなかれ。
わたしのいうことを了解してくれないのなら、もう思索などする必要はない。わたしのいうことを信頼してくれないのなら、もう悲憤などする必要はない。
わからんやつらは黙っとれ、ということです。
しかし、わしは↓こうだ。
七)雖欲無思、与君為体。雖欲無悲、与国為系。
思う無からんと欲すれども、君と体を為す。悲しむ無からんと欲すれども、国と系を為す。
思索しないでおこうと思っても、天皇とわしは一体なのじゃ。悲憤しないでおこうと思っても、国家とわしは一筋につながっているのじゃ。
ああ、このような思いを抱いて、
八)夏夜之短、耿耿如年。摽擗不寐、泣涕漣漣。
夏の夜の短きも、耿耿として年の如し。摽擗(ひょうへき)して寐(い)ねられず、泣涕漣漣たり。
「耿耿」(こうこう)というオノマトペには、①明るく輝く様子(≒ぴかぴか)、②不安である様子(≒いらいら)、という二通りの使い方がありますが、ここは②の意味です。「摽」は「なぐる、打つ」、「擗」は「自分の胸を叩く」。「漣漣」(れんれん)は液体が続けて流れるオノマトペ(≒たらたら)。このなんでもオノマトペしてしまおうとする「訳」は漢文を「日常的感覚」で読む肝冷斎一族ならではのものじゃて。
夏の夜は短いのに、心配でイライラしてまるで一年のよう(に長く感じる)。何かに殴りつけたり己れの胸を叩いたりして眠りつくことができず、涙( ;∀;)をはらはらと流し続けているのだ!
はじめはみんな純粋だったんでしょうが、政権を取ると偽官軍や奇兵隊や西郷さんまで誅殺します。
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本朝・佐久間象山「泄泄八章」後半(「象山先生詩抄」(「東瀛詩選」巻二十一所収)より)。胸を叩き涙を流していてもいいのですが、早く寝ないと朝になってしまいます。明日の朝はもう夏休みも終わり、電車も混み、ひとびとは希望を失った目でつり革に掴まっていることであろう。七月の初めごろはまだ明日への夢だけは残っていたように思い出しますが。
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