易牛馬頭(牛馬の頭に易(か)う)(「後漢書」)
もう九月になるのに関東で酷暑日はありえない。・・・と、こちらが決めてもあるんだからしようがない。

おいらの仲間は当時、あちこちのえびすに贈られたんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後漢の永寧元年(120)のことですが、
撣国王雍由調復遣使者詣闕朝賀。
撣(たん)国王の雍由調、また使者を遣わして詣闕して朝賀せしむ。
撣国という国の王さま、雍由調(ようゆうちょう)という人が、再び使者を派遣して、洛陽の宮中の正月の賀詞交歓会に出席させた。
「また」と言っているのは、安帝即位直後の永初元年(108)にも使者を派遣してきたがあったからである。
前回の使者は象牙や水牛を献上しに来たほか記録に残るようなことは無かったのですが、今回は、
献楽及幻人。能変化吐火、自支解、易牛馬頭。又善跳丸、数乃至千。
楽及び幻人を献ず。よく変化して火を吐き、自ら支解し、牛馬の頭に易う。また跳丸を善くして数すなわち千に至る。
楽団と魔術師を派遣してきたのである。魔術師はよく体を変えることができ、火を吐くことができ、自分で自分の手足を切ってバラバラになり、頭をウシやウマの頭に取り換えることができた。また、タマを飛ばすことが得意で、千個ぐらい一度に空中に千個ぐらいも投げ上げておいて、すべて受け取るなどという術も持っていた。
こんなのありえない。すばらしいではありませんか。
この魔術士、
自言我海西人。
自ら「海西の人なり」と言う。
自分で、「シリアの向こうの海の西側から来ました」と言うのである。
ええー!なんと、なんと。
海西即大秦也。撣国西南通大秦。
海西は即ち大秦なり。撣国の西南は大秦に通ず。
「海の西」とはつまりローマ帝国のことである。撣国の西南はローマ帝国につながっているというのだ。
「伝説のローマか・・・」
後漢宮廷の人たちはうっとりした。
明年元会、安帝作楽於庭、封雍由調為漢大都尉、賜印綬、金銀、綵繒各有差也。
明年元会に、安帝は庭に楽を作し、雍由調を漢の大都尉に封じ、印綬、金銀、綵繒(さいそう)を賜いておのおの差有り。
翌年の正月の賀詞交歓会の時には、安帝はわざわざ撣国から来た楽隊に庭で音楽を演奏させた。そして、使者を通じて、雍由調を漢の最高位の大臣に任命することになり、金印とその紐、黄金や白銀、いろのついた絹や糸を規定に合わせて賜ったのである。
こんな昔から、欧米信仰みたいなのがあったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「後漢書」巻八十六「南蛮西南夷列伝」より。見に行かないといけない催し物があるんですが、この魔術みたいなワクワクするやつではないし、体力気力無い上に酷暑とは。2号もやる気ないし、いよいよ3号肝冷斎を派遣するしかないのか。しかし肝冷斎一族は、時間などにあまりにもルーズなやつらなのだ。
コメントを残す