唐虞之際(唐と虞の際)(「幽夢影」)
むかしはよかった・・・と思うのですが、今の方がいいひともいるんでしょうね。

また鳥獣の話になってしまいました。この絵は使い勝手があるなあ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「尚書」(書経)の「舜典」によれば、超古代の舜帝の時代、音楽を奏すると、
鳳凰来儀、百獣率舞。
鳳凰来儀し、百獣は率(したが)いて舞う。
鳳凰はやってきて挨拶し、百獣は音楽に従って舞い踊った。
というのです。あほですね。音楽に惹かれてやってきたりすると、堯や舜のような立派な人であれば大丈夫ですが、ふつうの人間相手なら捕まえられて食べられてしまいます。近代以降の人間なら大量に捕まえて絶滅するまで食べます。
しかしながら、清の時代になりますと、
唐虞之際、音楽可感鳥獣。此蓋唐虞之鳥獣、故可感耳。若後世之鳥獣、恐未必然。
唐虞の際、音楽鳥獣を感ぜしむ。これけだし、唐虞の鳥獣、故に感ぜしむべきのみ。後世の鳥獣の若きは、恐るらくはいまだ必ずしも然らず。
「唐」は堯帝の姓、「虞」は舜帝の姓です。世襲でなく「禅譲」しているので姓が違っているんです。
堯・舜の時代、すなわち超古代には、音楽が鳥獣を感動させることができたのである。だが、それは、超古代の鳥獣だから感動させることができただけである。近現代の鳥獣だったら、おそらくそうはならないだろう。
と騙されなくなりました。鳥獣は進化したようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清・張心斎「幽夢影」第184則。わたしの知っているネコのうち、首里のネコはピアノの音を聞くと「にゃーにゃー」鳴きますし、戸田のバグパイプネコはおしりを叩くと「にゃーにゃー」「ぼえーぼえー」「うーうー」の三音程で鳴きます。ほんとですよ。現代でも鳥獣は音楽に感動しているかどうかは知らんけど反応はするようです。騙されはしないと思います。
「幽夢影評語」に曰く、
洪去蕪曰、然則鳥獣亦随世道為昇降耶。
然れば則ち、鳥獣もまた世道に随いて昇降を為すや。
ということは、鳥獣もまた世の中の道徳に随って、いいやつになったり悪いやつになったりするのか。
陳康疇曰、後世之鳥獣、応是後世之人所化身、即不無昇降、正未可知。
後世の鳥獣はまさにこれ後世の人の化身するところ、即ち昇降無きや不(いな)や、まさにいまだ知るべからず。
未来の鳥獣は、未来の人間が生まれ変わってなるんだから、いいやつになるか悪いやつになるか、あるいはそうでもないのか、まだわからないのではないか。
石天外曰、鳥獣自是可感、但無唐虞音楽耳。
鳥獣はおのずからこれ感ずべきも、ただ唐虞の音楽無きのみならん。
鳥獣は今の時代も音楽に感じていいやつになるのだと思うが、ただ現代には古代の音楽が無いだけなのだろう。
畢右万曰、後世之鳥獣、与唐虞之鳥獣無異、但後世之人迥不同耳。
後世の鳥獣は唐虞の鳥獣と異なる無きも、ただ後世の人の迥(はる)かに同じからざるのみ。
(石天外の言うように)現代の鳥獣は古代の鳥獣と異なることはないのだと思う。ただ、(音楽ではなく)現代の人間が、古代の人間とはるかに違ってしまっているだけなのではないか。
清代のみなさんは進化論を知らないので混乱していますが、どう考えても音楽に騙されるような鳥獣は淘汰されたのです。ダメなやつが淘汰されると種としては進化したことになる・・・近現代は厳しいなあ。
ちなみに、人間は進化の絶頂を極めたので、退化している可能性があります。例えば、昔のひとなら真実より上司のご機嫌を大切にしたでしょうに、現代ではよくない情報をあげて処分されてしまう人がいるらしいのです。可戒、可戒(戒めねばならない、戒めねばならない)。(もちろん韜晦してるんです・・・あ、全勝さんに不適切斎の文章が引用されている!不適切斎は肝冷斎ではないんです)
コメントを残す