枉自覓枯栄(枉自(むなし)く枯栄を覓(もと)む)(「袁中郎集」)
今日も暑くて某所でかんぴん・・・いや、硬直した死体である「僵尸」(きょんしー)みたいになるところでした。それにしてもかんぴんたんが方言とは・・・

「日本国もかんぴん・・・いや、硬直した財政になりつつあるぜぴょん」「やめてケロ」
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昨日ご紹介した「病起偶題」は、同題の五律の「其一」でした。今日は「其二」をご紹介します。
明の時代のころですが、病気が治りました。
不断青雲夢、難堪白髪情。
青雲の夢は断たざれども、堪え難きは白髪の情なり。
春の雲を見上げるような夢をまだ諦めているわけではないのだが、
どうしようもなくがまんできないのは、白髪(老年)を嘆く気持ちである。
青雲と白髪で対にしえみました。この二句は、対句の前の句と後の句が意味上つながって、一文を為しています。「流水対」という技巧ですね。
跳梁山鬼妬、落莫酒人軽。
跳梁せしは山鬼も妬み、落莫しては酒人も軽んず。
(若くて)あちらこちらと飛び跳ねていたときは、山中の精霊もわしの運動量を嫉むほどであったが、
落ちぶれてしまった今では、酒飲みたちにバカにされている状態である。
「山鬼」は山の中にいて悪さをする精霊、わが国の「やまわろ」(山童)と同様の妖怪ですが、近世にはあまり活躍しておらず、六朝時代の小説によく出てきます。したがって、「山鬼」は、千年ぐらい昔の素朴な民話・伝説の時代を喚起する言葉になります。
色界身終苦、無生学未成。
仏教でいう「色界」(しきかい)は物質の世界、我々がいま生きているこの世界は「欲界」で、いろんな欲望が意志を作ってその成否に苦しまねばならんのですが、「色界」は物質しかないので、欲望が無くてかなりシアワセになります。さらに上に行くと「無色界」で物質からも離れることができる。ただしここまでは「三界」で、因縁によって生まれ変わらねばなりません。「色界」は今よりはいいところなのですが、「無生」(むしょう)すなわち生まれ変わってまた苦しまねばならないことがもう無い、というすばらしい状態にはなれないのです。
色界の身は終に苦しみ、無生の学はいまだ成らず。
(欲望はもうほとんど無く)色界レベル(のわたし)とはいえ体という物質がまだあるので、どうしても身体的な苦悩(今回の病気も)は味合わねばならない。
二度と生まれて来ないような仏教的な修行はまだ成功していない。
浮漚能幾許、枉自覓枯栄。
浮漚(ふおう)はよく幾許(いくばく)ぞ、枉自(むなし)く枯栄を覓む。
浮かんだ泡(のようなわたし)はいったいいつまで存在していられるのか、それなのに虚しいことに、枯れる(失敗する)か栄える(成功する)かと成功を夢見ているのだ。
これで、冒頭の「青雲の夢」に戻ります。そんなのは虚しい(枉自)ことなんです。
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明・袁宏道「病起偶題」其二(「袁中郎集」所収)。ほんと泡みたいなもんです。今年の暑さで、ああ、もう破裂する直前だ。
三と四もあるんですが、これはまた今度。お楽しみにニャ。
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