調査報告(北谷町砂辺)

8月23日(土)・・・沖縄中部、北谷町の一番北の集落である砂辺に行ってみます。砂辺は、国道58号線を隔てて米軍嘉手納飛行場と隣り合わせの海辺の村で、沖縄戦における米軍の上陸地、空には爆音、隣には燃料貯蓄庫などがあるのですが、一方で沖縄の伝統的な村落施設がワンセットある不思議な空間だというので見に行ってみました。

〇伊平屋森石良具のおイビ ・・・ 国道58号線や嘉手納飛行場のある台地の端になります。眼下に砂辺の村が見え、村の「腰当て」山となっていたことがわかります。おそらく昔むかしは、祭礼の日に、海の向こう(おそらく伊平屋)から来た祖神(うやがん=おやがみ)が、ここから村に降りて来る聖地だったのでしょう。なお、イビは奄美で「イベ」、本土で「齋辺(いみべ)」、神域の至聖地を指すことばです。

〇伊平屋お通し拝所(跡?)・・・村の北西端、伊平屋島に一番近いところにあった拝所だ、と思うのですが、跡形もありません。

〇砂辺のにがみ ・・・ 「にがみ」は「根神」で、村を開いた祖先が神格化したもの。「祖神」は現実にやってくる「来訪神」ですが、普段祀られているのは「根神」という関係のようです。りくつじゃない世界なのでこういう民俗学的な説明さえ「虚構」に聞こえてしまう。

〇地頭火ヌ神

〇根所 ・・・ 根神の隣にある「根所」です。「御神屋根所」とよんでいるようです。村を開いた祖先神の子孫の家、と観念され、一般には根所の男性が世俗の村長、女性が神事を掌るノロや根神(この場合はほんとの現人神なんです)となる。そして、村長もノロたちに完全に心服してびびっている社会です。なおこの家はまだ現住で、したがってご子孫がなお活動しているようです。

〇殿(とうん)・・・もう少し北部に行くと「あしゃぎ」になりますが、祭礼の日に山から下りてこられた祖神(現実には憑依されたということになっている村のおばあたち)がここで御休憩される。根所たちがここで御供応します。

〇のろ墓 ・・・ 「殿」の裏側にある「御嶽」(うたき。本土の神社に相当)にある高級神女の墓。

〇御嶽照神 ・・・ これが御嶽の至聖所だと思われます。祖神は山からまずここに下りてくるのでしょう。なお、この近くに軽トラが止まっていて、中でおじいが一服していたのですが、どうみても軽トラが入ってこれる道がない。あんまり見てはいけないモノのような気がして目を伏せて通り過ぎる。沖縄尚学が決勝戦してたので、なんかわさわさ来ていたのかもしれないさぁー。

〇大里なんとか、村ぐさい墓 ・・・ 上の照墓の下側にありました。

〇のろがー ・・・ のろが神事の際に使う水を取る泉。

〇踊り神墓 ・・・ 根所の近くにある「獅子所」の向かい側にありました。由来等不明。

〇有名なくまやーがま ・・・ 近世以前から死者を葬る霊地とされていたガマ(洞穴)ですが、米軍上陸時に村人が隠れ、ここの村人は集団自決しなかったので、生き残りました。その後、発掘したところ、「先史時代」の遺骨がたくさん出てきて、按司時代(十二世紀ぐらい以降)以前から遺跡であったことが判明。

〇砂辺の寺 ・・・ くまやーがまの裏手、同じ敷地にある洞穴の上にある祠です。「てら」とはなんぞや。「寺院」が出来る前、古琉球では、共用の死体置き場(後に洗骨する場合もない場合も)を「てら」と呼んでいた。現在でも「てら」と呼ばれる場所が各地にありますが、「寺院」の跡地ではありません。さて、そうなると、本土で「寺院」の訳語として、なぜ「てら」という言葉が使われたのか、不思議になってきます。柳田は「てら」とか「でんでら」というのが日本人のあの世への入り口で、沖縄にその意味でこの言葉が遺ったのだ、と言ってますが、あまりに魅力で「ほんとか?」と言いたくなります。

〇産泉 ・・・ 産湯など重要な儀式の際に使う水を取る泉。

この時点で13時ぐらい。沖縄の昼の暑さは、本土より気温は3~4度低いんですが、やはりきつい。熱中してきました。ちなみに沖縄尚学の試合中は人がいなくなる、と言いますが、それは昼間は表に出ている人なんかいない、ということでしかないと思います(表にいるのは観光客(特にインバウンドの方々)と肝冷斎のような「探究者」ぐらい)。沖縄尚学優勝したのでどこかでふるまいとかしてないかと公民館やサンエー行ってみましたがやってませんでした。

観ネコ記 令和7年8月22~23日

首里ネコだ。あほに見えますがすごくきつい性格で、今回もずいぶん咬まれる。

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