8月20日 明日金曜日だと思ったらまだ木曜日だ

雲消雨霽’(雲消え雨霽れたり)(「清通鑑」)

暑いですね。一雨どっときて涼しくなるといいですね。

「お、おんなは・・・」
トランプさんなら言ってくれるかも。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

↑などと天気を甘く見てはいけません。雲消え、雨が晴れ上がる前がコワいんです。

義和団事変の時(光緒二十六年(1900))、清朝(西太后政権)は、義和団に乗っかって欧米日の八か国に宣戦布告をしてしまいました。軟禁状態で実権を持っていなかった光緒帝をはじめ一部のまともな臣下は反対したのですが、阿諛した者も多かった。ところがこれが大失敗で、八か国軍が北京に攻めてくると、西太后は側近たちとともに(光緒帝を連行して)長安に避難します。この時、光緒帝の愛姫を井戸に沈めて殺してしまったのは有名ですね。(笑)

長安に避難した後、八か国軍に降伏し、莫大な賠償金と引き換えに和議が成立するのですが、この時に随従した人たちの中に呉永という堅実な官僚がいました。

彼が後に語ったところよると、

某日、奏請昭雪以反対開戦被殺之大臣徐用儀、許景澄、袁昶三人。

すると、

言尚未尽、突見太后臉色一沈、目光直注、両腮進突、額間筋脈悉僨起。

露歯作噤齘状。

歯が剥き出しだというのですからヤバい。そして、

厲声曰、呉永。連你也這様説耶。

猝見此態、惶悚万状。

忽而雲消雨霽。依然無迹、可謂絶大幸事。然予真已汗流浹背矣。

不意太后盛怒時、威棱乃至如此。

ああ。

昔人謂曾李両公当時威権蓋世、一見太后皆不免震懾失次、所伝固当不虚也。

「曾」は太平天国を討伐した曾国藩、「李」はその後継者で、北洋艦隊を率いて日清戦争を戦った李鴻章のことです。

救国の英雄たちも形無しだったのですなあ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「清通鑑」巻二六五より。ははは、情けないひとだな。心も貧しいのでしょう。おれだったら、「えらそうなことを言うんじゃないきに。ちいせえ、ちいせえぜよ!」と言いながら、ぼかーんとやっつけて

と、言ってやってたのになあ。その場にいなくて残念です。

・・・と、不適切斎が来て勝手に書きこんでいきました。時々現れるのでほんとに困るなあ。肝冷斎一族なら上司に叱られたら恐怖で心臓収縮したり、お詫びや言い訳もできずに要らんこと言ってもっと怒らしたりしてしまうだけですからね。不適切斎は肝冷斎とは相いれないものがあると言えよう。

ホームへ
日録目次へ

コメントを残す