姑少待之(姑少(しばら)くこれを待て)(「袁氏世範」)
明日は出勤を避けた方がいいのでは。年寄にこれはマズいですよ。

カエルめ、天の棄てるところとなって、かんぴんたんになるぜ。こんな暑い日に出勤すると。
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宋の時代の人が言うことには、
凡人為不善事而不成、正不須怨天尤人。此乃天之所愛、終無後患。
およそ人の不善の事を為さんとして成らざるは、正に天を怨み人を尤むべからず。これすなわち天の愛するところ、ついに後患無し。
一般に、ひとが善くないことをしようとして失敗したとして、これはまったくお天道様を歎いたり誰かのせいにしたりすべきことではない。これは逆に、お天道様に愛されているのだと考えるべし。後のうれいも全くない。
如見他人為不善事常称意者、不須多羨。此乃天之所棄、待其積悪深厚、従而殄滅之。
もし他人の不善の事を為して常に意に称う者は、多羨すべからず。これすなわち天の棄つるところ、その積悪深厚なるを待ちて、従いてこれを殄滅(てんめつ)す。
もし他人が善くないことをしていて、何をやってもうまく行っているのを見ても、絶対羨んではいけませんぞ。これは逆に、お天道様に棄てられているのだと考えなければならん。積み上げた悪が深く、厚くなっていくのを待って、やがて(お天道様は)こいつを絶滅させなさるのだ。
でも、勝ち組は羨ましいであろう。だが、
不在其身、則在其子孫。姑少待之、当自見也。
その身に在らざれば、すなわちその子孫に在り。姑少(しばら)くこれを待てば、まさに自ずから見(あらわ)るべし。
彼自身が絶滅するのでなければ、つまりはその子孫がそうなるのだ。しばらくの間がまんしていると、やがて自然にわかってくるであろう。
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宋・袁采「袁氏世範」処己篇第二十則。しばらく待てば、勝ち組のかたが転がり落ちてくる、ここより深いところまで落ちて行かれるかも知れぬのじゃ。そう思えばガマンできるではありませんか。ひひひ。でも何が善で何が不善かわからないこんな世の中では、こっちがさらに転がり落ちるかも知れないので安心はできません。
しばらく待つとこんなこともわかってきました。
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