漏雨所淋(漏雨の淋するところ)(「玉泉子」)
明日雨みたいで湿度高いのでイヤになりますね。天気の解説見てたら「秋雨前線が本州南に広がり、梅雨末期豪雨のような状態を呈している」そうなんです。梅雨が明けたと二回言ってたし、説明用語のパラダイムシフトしないといけないのでは。

福島県にある国宝・白水阿弥陀堂は、奥州藤原氏の御姫様が造らせたんだそうです。国宝指定前のぼろぼろ時代の写真と、現在の観光宣伝を見くらべると、「おカネにならない伝統を大切にしない」日本人の本質がよくわかって悲しくなってきます。
インバウンドがもうかるなら、「我が国の国体は(移民否定型)インバウンド国家である!」と文科省が宣言する日もあるのかも。
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唐の時代のことですが、後に大功をあげて邠公に封ぜられる杜悰がまだ幼かったころのことだ。
与群児戯于野、忽有一道士独愛悰、以手摩挲曰、郎君勤読書、勿与諸児戯。
群児と野に戯るるに、忽ち一道士有りて、独り悰を愛し、手を以て摩挲(ましゃ)して曰く、「郎君読書に勤しめ、諸児と戯るるなかれ」と。
他の子どもたちと野原で遊んでいたら、どこからか老いた道士(道教の住職)が現れて、他の子どもは振り向きもしないのに、ただ悰の頭をずるずると撫でて、「ぼうよ、読書して勉強せいよ。他の子どもらと遊んでいてはいかんぞ」と言った。
そして、
指其観曰、吾居此、頗能相訪否。
その観を指さして、「吾ここに居れり、すこぶるよく相訪ぬるや否や」。
彼が住んでいる道観(「観」は道教のお寺)を指さし、「わしはあそこに住んでいるんじゃ。ときには訪ねてきてくれよのう」と言った。
「うん・・・」
と答えるのも待たず、道士は、
既去。道士半面蒙黒色。
既に去りぬ。道士、半面黒色を蒙る。
もういなくなっていた。この道士、あとで考えると、顔の右半分が、影になったように黒ずんでいた。
それから数日後、雨が降ったので他の子どもと遊ぶこともできず、
悰即詣之。
悰、即ちこれに詣づ。
杜悰は早速その道観に入ってみた。
但見荒涼他無所有、独一殿巋然存焉。
ただ荒涼たるを見、他に有るところ無し。ひとり一殿のみ巋然(きぜん)として存す。
荒れ果てて寂し気な場所で、ほとんどの建物は朽ちていたが、ただ一つだけ祠が残っていた。
「巋然」は「一つだけ高くそびえている」意です。
ぎしぎしと軋む板を踏んで中に入ってみると、
「わ!」
人がいました・・・と思ったが、
内有老君像。
内に老君の像有り。
祠の中には、杖をついた老子の像があったのだ。
至是詳観其像、頗類向者所見之道士。乃半面為漏雨所霖故也。
その像を詳観するに、すこぶる向(さき)に見るところの道士に類す。すなわち半面は漏雨の霖するところと為れるが故なり。
その像をよくよく見てみると、先日見た老道士にたいへんよく似ていた。そして、その顔の半分は雨漏りによって濡れてしまって黒く変色していたのである。
もちろんえらくなってから立派なお堂を寄付したんです。
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唐・無名子「玉泉子」より。これは梅雨前線だったんでしょうか、秋雨前線か。あるいは?
プロ野球チームが弱くてもチケット代が爆上がりして観客が増える現象が不思議でならなかったのですが、インバウンド客の取り込みだったことがNPBの公表でわかりました。大学も「学徒インバウンド」状態だそうですし。
ところで、以下、無用のことながら。
荒涼、じゃないや広陵高校問題で、事件が、ではなく「批判すること」が人権問題だと朝日新聞と高野連が共同で宣言しましたが、メディアが通れば道理が引っ込む、としか言いようがない(念のため、わたしは広陵辞退論者ではないですよ)。「野球」ではなく「高校野球」のコンセプトはマイナスイメージが強すぎて、もう数年で崩壊して、やっと「高校生のやってる野球」に変化すると思います。父兄を巻き込んだ一大利権もいよいよ・・・。全国大会は、いずれは各県回り持ちで細々やるのでは。ちょっと見に行きたくなってきますね。
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