躊躇久之(躊躇してこれを久しくす)(「録異記」)
今日のような熱中症アラートの日に表に出るのには、ちゃんとした常識のある人(「君子」)は躊躇しますよね。

おれたちカラスぐらい賢いと、逆にほかの生物が弱っている天候下でこそ活動するものだが・・・まさか、肝冷庵がカラス並みに賢いというのか?
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唐の終りごろ、「恩州」のことだというのですが、確かに唐代、廣東に「恩州」という地名があるので、一応そこのことだとして話を進めます。
恩州大江之側崖壁万仞、高処有洞門、中有仙人。
恩州の大江の側の崖壁万仞にして、高処に洞門有りて中に仙人有り。
「万仞」というのは比喩だろうなあ、とは思うのですが、正確なのが好きな人は「仞」(じん)は「七尺」、唐代の一尺は31センチぐらい、なので自分で計算してみてください。
恩州の大きな川のかたわらには、一万仞もある岸壁が立っている。その高いところに洞窟の入り口があって、その中には仙人がいるというのである。
もしかしたら、浙江の「温州」の有名な雁蕩山をイメージしているのかも知れません。湾を見下ろして巨大な岸壁が立っていて、信仰や観光の対象になってきました。実物見たことないので知らんけど。
江中舡人叫声呼之、往往即出、多着紫衣。下窺江岸躊躇久之、方去。
江中の舡人叫声にこれを呼べば、往往にして即出し、多く紫衣を着す。下に江岸を窺いて躊躇これを久しくして、まさに去る。
川の方から、船乗りたちが大声で「せんにーーーん!」と呼ぶと、よく出てくる。たいていは紫の服を着ているが、岸壁から川を覗いて、たじろいでうろうろしているが、しばらくするといなくなってしまう。
のだそうです。ほんとかな。
洞下江游水浅、往来舟舡於此搬載上岸。船軽然後可行。
洞下の江は游水浅く、往来の舟舡ここにおいて搬載上岸す。船軽く、然る後に行くべきなり。
洞窟の下の川は流れている水が浅いところなので、行き来する船舶はここで船荷を岸に挙げて陸路を運ぶ。船を軽くしないと、ここを通り過ぎられないからである。
(知り合いの)劉宏がこの地を過ぎた時に、
舟人具話其事、因呼数声、仙人果出山上。
舟人つぶさにその事を話し、因りて呼ぶこと数声、仙人果たして山上に出づ。
船乗りたちが実に具体的にそのことを話すので、「じゃあ」と思って何回か大声で仙人を呼んでみたところ―――仙人は本当に山の上に出現した。
というのだから、ほんとうのことでした。
この岸壁、
絶頂多有石笋、迥然挺抜、高者僅十尺、亦有数百尺者。皆光色潔白、如凝酥積雪。
絶頂多く石笋有りて、迥然(けいぜん)として挺抜し、高さはわずかに十尺、また数百尺なるものも有り。みな光色潔白にして、凝酥・積雪の如し。
絶頂には石のたけのこ(鍾乳石)がたくさんある。輝いていてまわりと全く違う。高さは、低いもので3メートルぐらい、高いものは百メートルぐらいのものもあるといい、どれもこれもピカピカと真っ白に光り、固まったチーズや降り積もった雪のようなのだ。
ただし、
人跡不到。
人跡到らず。
人間が行ったことはないという。
―――人間が行ったこともないのに、なぜそんなことがわかるのか?
大都黔峡諸山、有大酉小酉皆是絶跡勝境為神仙所居。
大都、黔峡の諸山は、大酉小酉みなこれ絶跡勝境に有りて、神仙の居る所と為れり。
たいてい、四川地方の山々というのはですな、有名な湖北の大酉山、小酉山をはじめ、ひとの足の絶えたすばらしい環境にあるのです。そこに神仙がいるのです。
・・・だから、人間の行ったことのない土地だからといって、全くわからないわけではなく、仙人がいる以上すばらしいところだということはわかるわけです。
理屈になってるかどうかはともかく、たしかにそうなのでしょう。M・ウェーバーのいう「理解可能」であり「説明可能」ではないのです。
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五代・杜光庭「録異記」巻一より。すごく勉強にはなるお話ですが、特に仙人たちは高いところがコワい、というのが新発見。廃刊されてなかったら土曜夕刊あたりに特集されてもいいぐらいの重要案件では。
なお、湖北から四川への山中にあるという大酉山・小酉山(合わせて二酉山)は、秦の始皇帝の焚書の際、学者たちが古代の秘密の書籍を隠したところと言われ、地下にすごいでかい書庫があって、今もそこに失われた書籍が蔵されているという。
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