8月2日 涼しいはずだ、心頭滅却されてきた

非所願也(願うところには非ざるなり)(「焚書」)

暑いときには熱いもの飲んだり食べたりするといいそうですから、熱い話もいいでしょう。

されるのはいいけど自分でするのはダメ、という考え方もありますが、最終的にはあんまり細かいこと言っててもなあ。

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明の萬暦何年かに、僧侶が焼身した。

念仏是便宜一條路、昨火化僧只是念仏得力。人人能念仏、人人得往西方、不但此僧為然。亦不必似此火化乃見念仏功効也。

古今念仏而承仏接引者、倶以無疾而化為妙。故或坐脱、或立亡、或吉祥而逝。

このため、ブッダの十の呼び名に中に「善逝」(ぜんぜい)すなわち「いい死に方をされたお方」というのがあるわけである。

此僧火化、雖非正法、但其所言得念仏力、実是正言。不可因其不是正法而遂不信其為正言也、但人不必学之耳。

「おまえも焼身してしまえ」という人がおられるかも知れませんが、

念仏須以見仏為願、火化非所願也。

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明・李贄「焚書」雑述篇「観音問」より。自信和尚というひとに書いた手紙だそうです。自信和尚は、李贄から、

既自信、如何又説放不下。試問自信者是信個甚麼。

とからまれています。付き合うのめんどくさそうですね。

観タマ記とか調査記録は明日以降にします。目がしょぼしょぼしてもうダメじゃ。これでは、仏に会えても目をぎろぎろと見開いて「なるほど仏はこうなっとるのか」と調べたりできません。移民か移民でないか、政府にきちんと分けてもらわないと見分けつきません。

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