非所願也(願うところには非ざるなり)(「焚書」)
暑いときには熱いもの飲んだり食べたりするといいそうですから、熱い話もいいでしょう。

されるのはいいけど自分でするのはダメ、という考え方もありますが、最終的にはあんまり細かいこと言っててもなあ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明の萬暦何年かに、僧侶が焼身した。
念仏是便宜一條路、昨火化僧只是念仏得力。人人能念仏、人人得往西方、不但此僧為然。亦不必似此火化乃見念仏功効也。
念仏はこれ便宜に一条路なり、昨の火化の僧ただこれ念仏に力を得たり。人人よく念仏すれば人人得て西方に往く、ただにこの僧の然りと為すのみならず。また必ずしもこの火化のすなわちこれ念仏の功効なるを見るが似(ごと)からざるなり。
仏のことを思う「念仏」というのは、便利な一本道である。この間の焼身した僧侶は、やはりこの「念仏」に力を得てやり遂げたのである。誰でもよく念仏すれば誰でも西方の世界に行くことができる。この僧侶だけがそうできた、とうわけではない。また、今回の焼身が必ず念仏の功績であり効果であると言い切ることもできない。
古今念仏而承仏接引者、倶以無疾而化為妙。故或坐脱、或立亡、或吉祥而逝。
古今の念仏して仏の接引を承くる者、ともに疾無くして化するを以て妙と為す。故に或いは坐脱し、或いは立亡し、或いは吉祥に逝く。
昔から、仏を思って仏のお迎えをいただいた者は、みな病気も無く死んだというのが不思議なことだとされるのである。この人たちは、あるいは座ったまま、あるいは立ったまま、あるいはシアワセな顔をしたまま、死んでいく。
このため、ブッダの十の呼び名に中に「善逝」(ぜんぜい)すなわち「いい死に方をされたお方」というのがあるわけである。
此僧火化、雖非正法、但其所言得念仏力、実是正言。不可因其不是正法而遂不信其為正言也、但人不必学之耳。
この僧、火化せるは、正法にはあらずといえども、ただその言うところ念仏力を得て、実にこれ正言なり。その、これ正法ならざるに因りて遂にその正言たるを信ぜざるは、不可なり。ただ人のこれを学ぶを必せざるのみ。
この僧侶が焼身してしまったのは、座ったままとか立ったままとかシアワセそうに、といった正しい死に方ではないが、この僧侶の、念仏によって西方に行けるという主張は、これは全くの正しい主張である。正しい死に方ではないから正しい主張を信用しない、というのではダメじゃ。ただ、みなさんは、この人のやり方を真似する必要はない、というだけである。
「おまえも焼身してしまえ」という人がおられるかも知れませんが、
念仏須以見仏為願、火化非所願也。
念仏はすべからく仏を見るを以て願いと為す。火化は願うところに非ざるなり。
念仏するのは、仏に会いたいというのが本来の願いである。焼身することが願いなわけではありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明・李贄「焚書」雑述篇「観音問」より。自信和尚というひとに書いた手紙だそうです。自信和尚は、李贄から、
既自信、如何又説放不下。試問自信者是信個甚麼。
既に「自ら信ず」れば、如何ぞまた説きて放ち下さざる。試問す、「自ら信ず」る者は、これ個の甚麼(いんも)を信ずるや。
もう「自ら信じる」ことができた、と言いながら、どうしてその境涯を説法しないのか。ちょっと質問するが、「自ら信じる」というあなたは、どの何を信じているのか。
とからまれています。付き合うのめんどくさそうですね。
観タマ記とか調査記録は明日以降にします。目がしょぼしょぼしてもうダメじゃ。これでは、仏に会えても目をぎろぎろと見開いて「なるほど仏はこうなっとるのか」と調べたりできません。移民か移民でないか、政府にきちんと分けてもらわないと見分けつきません。
コメントを残す