貝字加文(貝字に文を加う)(「澠水燕談録」)
「進退については何もなかった」とは何があったのか。・・・政治的言語は我々なんかには理解できないものなのでございましょう。

万有引力がすべてのものを引き付けるように、すべてのことをAIに決めてもらおうと思ったのですが、AIは過去の先例をすべて学んでしまうので、「間違った判断の方が遥かに多い」政治をやらせるには危険極まりない装置なんだそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
北宋の慶暦七年(1047)、河北貝州で兵士・王則が反乱を起こした。
朝廷は開封府知事の明鎬に命じて討伐させたが、
加討久無功。
討を加うるも久しく功無し。
討伐しても長期間、成功しなかった。
宰相の夏竦が明鎬を嫌っており、その提案や報告をことごとく遮っていたせいでもあった。
そこで、朝廷は、参知政事(国務大臣とお考えください)の文彦博を河北経略使に任命し、明鎬をその副官とした。
文彦博は、帝直々に、戦地における行動について中央の指示を受けないこと、報告は帝に直接行うことについて了承を得て夏竦の妨害を抑えると、貝州に向かい、そのまま明鎬に指揮を取らせて攻城を続行させ、結局、地下道を掘って決死隊を城内に潜入させて、反乱軍を制圧、王則を生擒したことを報じた。
生け捕りにされた王則は、首都・開封に護送されたが、夏竦はそれが偽物ではないかと疑問を呈する。
だが、王竦の背中には「福」の入れ墨があり、これはもと王則の母親が困窮して、乳児の則を手放す時に、後に本人であることを確認できるようにと彫りこんだものであること、反乱は、この入れ墨があるために、王則を神仙と信じた者たちが起こしたものであることが立証され、夏竦の疑いは霧消したのである。
かくして凱旋した文彦博に、仁宗皇帝は、
欣然曰貝字加文、為敗。卿必擒則矣。
欣然として曰く、貝字、文を加うれば「敗」と為る。卿必ず則を擒えん、と。
お喜びになっておっしゃった。
「貝州の「貝」の字にあなたの姓の「文」を加えれば「敗」の字になりますからね。あなたにお願いすれば、必ず王則を「敗」って生け捕りにしてくれると思ったのじゃ」
と。
詔して文彦博を「平章事」(びんしょうじ。宰相の称号)とし、その推奨した明鎬を参知政事に命じた。また、
曲赦河北、改貝州為恩州。
河北を曲赦し、貝州を改めて恩州と為す。
河北一帯の罪人の罪を赦免し、このことを記念して、「貝州」の名を改めて「恩州」とした。
のであった。なお、本来なら責任を追及されるべき夏竦派の河北太守も、一部からの反対にかかわらず、恩賞に与かっています。
「むかしの人は、貝に文で「敗」なんてゴロ合わせで喜んでいたんだ。現代人と違って劣っているなあ」
などと軽々しく思ってはいけません。帝が「側字」(文字占い)にかこつけて救ってくれたおかげで、初動を失敗した明鎬やその行動を邪魔した夏竦らの責任をすべて払拭し、さらには文彦博に向けられるかも知れない嫉み(実際、文彦博は何もしていない・・・)を吸収してしまったのですから、暗愚好色にさえ見えながら四十年余にわたって北宋最盛期を現出し、「仁宗」の謚号を贈られたこの皇帝の、なみなみならぬ政治的センスが読み取れるではありませんか。
・・・・・・・・・・・・・・・・
宋・王辟之「澠水燕談録」巻八より。「宋史紀事本末」等により一部といいますか、多くを補った。
「ほう、最近の新聞でも読んで政治的な話に目覚めたのかね、肝冷斎くん」
「いやいや、わたくし新聞なんか読みませんので世の中のことはよくわかっておりません」
と答えたものの、ところで自分が「肝冷斎」なのか「肝冷庵」なのかわからなくなってきました。
「肝冷庵」に代わったつもりでいたんですが、あるひとの指摘を受けてブログ名を確認してみたら「肝冷斎雑記」になっていて、「肝冷斎」を引き継いでいるみたいです。「肝冷斎と肝冷庵は別人格」とは言いづらくなったので、これからは「肝冷斎の一部が肥大化して人格を持ち始めたのが肝冷庵」という設定にしたいと思います。集電盤の肝冷斎から配電盤の肝冷庵が独自の意識を持って分離しはじめた・・・人面疽みたいなやつをイメージしていただければよろしいかと。
コメントを残す