東国之風(東国の風あり)(「庸閒斎筆記」)
こんな話、いまさら聞いてもしようがないんですが・・・と思ってたら、意外と今日的課題を含んでいるかも。

海賊の絵は使い勝手があるなあ。大暑も過ぎ、明日からは涼し気な風に乗って、略奪といきたいもんだぜ。
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明末の海賊・鄭芝龍は東シナ海を股にかけて活動し、日本の平戸にも根拠地を持っていて、日本人女性を女房にして嫡子・鄭成功を儲けたのであった。
芝龍は、北京の明朝が滅びたあとに、清朝勢力に抵抗した南明政権の隆武帝の時、延平郡王と国姓(朱氏)を授けられたが、機を見るに敏にしてたちまち清朝に寝返った。
ところが、夫の変節を承服しない女房は自殺、息子の成功はおやじの元部下らを集めて反清朝を旗印に挙兵し、以来、
奮蟷臂以抗顔行、雄踞台湾四十年、伝子若孫乃滅。
蟷臂を奮いて以て顔行に抗い、台湾に雄踞すること四十年、子若しくは孫に伝えてすなわち滅ぶ。
カマキリのカマのようなひ弱な勢力でおやじの行動に抵抗し、台湾を勢力下において四十年、子からさらに孫に伝えて、ようやく滅亡した。
ああ。その行動は、
雖為周之頑民、寔殷之義士也。
周の頑民たりといえども、寔(まこと)に殷の義士なり。
周(清)にとってはかたくなな反乱人民であったかも知れないが、殷(明)にとっては本当に正義のひとびとであったといえよう。
康熙帝は感心して、その子孫を(逆賊ではなく)爵位を以て封じた。
これはまたすごいことであられる。
仰見如天之度、凡在遠人、無不観感。
仰いで天の如きの度を見て、およそ遠きに在るの人も、観感せざる無かりき。
康熙帝の天の如き大きな度量を仰ぎ見れば、遠くに住む未開人たちも、見て感動しないひとはいないであろう。
ところで、
日本人以康公我之自出。藤森大雅有鄭延平焚儒服図詩、慷慨激昂、用采之以備東国之風。
日本人、康公を以て我の自りて出づるとす。藤森大雅、「鄭延平の儒服を焚くの図」の詩、慷慨激昂、これを用采して以て東国の風を備えん。
日本人は鄭成功は日本人から生まれたのだ、と誇りにしている。藤森大雅という人が、「延平郡王・鄭成功が儒者の服を焼いているところの絵」という詩を作っていて、これがまた興奮して怒り、昂って、東国(日本)の雰囲気はこんなものだということを知るのに適当だと思うので、ここに採用してみる。
その詩に曰く(長いので適当に中略します)、
延平郡王真男児、忠義之心確不移。一死酬恩無反顧、一木欲支大廈欹。
延平郡王は真の男児なり、忠義の心確かにして移さず。一死恩に酬いて反顧無く、一木支えんと欲するも大廈欹(そばだ)つ。
延平郡王・鄭成功は、ほんとうのオトコだぜ! 忠義の心はしっかりして移動することがない。恩義に対し自分の死を捧げて顧みることも無いのだが、もはや一本の木が支えようとして、大きな家が崩れて来るのを押し戻すことは難しい。
鄭成功は、しかし、
脱却儒衣付焚如、仰天低回瀝心血。昔為孺子今孤臣、向背去留異所遵。志業雖不遂、足為万世鼓忠義。
儒衣を脱却して焚如たるに付し、天を仰ぎ低回して心血を瀝ぐ。昔は孺子たるも今は孤臣なり、向背去留遵うところ異にす。志業は遂げざると雖も、万世の忠義を鼓すと爲すに足れり。
科挙試験を目指して儒者の服を着て勉強していたが、(兵を挙げるに当たって)これを脱ぎ捨てて軍服に着替え、儒者の服は燃やしてしまい、天を仰ぎ、地面をうろうろと歩きまわって心臓から血を注ぎだして誓いのしるしにした。それまでは御曹司だったがそれからは孤立した前朝側の臣となって、向かうところ背くところ行くとか留まるとかの行動を(父親とは)別にしたのだ。結局、志すところの仕事(明朝の再興)は成し遂げられなかったけれども、遠い将来まで忠義のひとびとを鼓舞するには足りる行動であろう。
君不聞此子受生日域中、山川鍾秀胆気雄。又不聞母氏清操亦奇特、泉城烈死驚異域。母教自古賢哲多、何況男児性所得。
君聞かずや、この子日域中に生を受け、山川秀を鍾(あつ)めて胆気雄なるを。また聞かずや母氏清操にしてまた奇特、泉城に烈死して異域を驚かせしを。母の教うるはいにしえより賢哲多く、何ぞいわんや男児の性に得るところなるを。
おまえさんは聞いたかい、この若者は日本の領域で生まれたのだ。だから、日本の山と川のいいところを集めて、肝ったまがどでかい。また聞いたかい、こいつのおふくろは清らかな忠義心を持っていて、ふつうではなく、杭州城で自決して、チャイナ中を驚かせた。おふくろに教えられたやつには、いにしえより(孟子とか)賢者や哲人が多い。おまけに男の子の方の生まれつきの性格もすばらしいのだ。
三世供奉明正朔、衣冠堂堂四十霜。永為臣子示儀表、昭回並懸日月光。
三世、明の正朔を供奉し、衣冠堂堂たり四十霜。永く臣子たりて儀表を示し、昭回して並びに日月の光を懸けん。
自分・子・孫、と三代にわたって明朝廷の定めたカレンダーを用いて忠節を著し、立派な衣冠を着けて霜が四十回降る(すなわち四十年)間、政治を行ったのだ。長らく明の臣としての表現を尽くしたのだから、太陽・月を並べて空に懸けて、その光を競わせたいものである。
この藤森大雅先生のいう「東国の風」≒「日本人らしい行動」というのはどういうところなんでしょうか。向こう見ずに走り回っている、ということなのであろうか。あるいは一定の組織(明朝とか企業とか)に属したらあんまり所属を変えない、ということなのか。ああ、いずれぞ。
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清・陳其言「庸閒斎筆記」巻四より。日〇人ファーストの観点から、鄭成功をどうするか? もし援軍を求めてきたら、どうする? 考えてみてくだされや。
おおっと、いつの間にか肝冷斎を高く?評価する一文が付け加えられています。肝冷斎と肝冷庵は別のひとですが、今は隠棲している肝冷斎にも何とか伝えてあげたいものです。うっしっし。
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