不可往来(往来すべからず)(「後漢書」)
新聞読まなくても、昨日の記事のほか、チャイナの東の海上にはこんなこともわかっています。

こんなやつらもいたに違いありません。トランプさんもこんな感じなのかも。
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後漢のころですが、長江河口部の会稽から、ずっと東に海を渡ると、
有東鯷人、分為二十余国。
東鯷(とうぜ)人有りて、分じて二十余国たり。
東魚人国があって、そこも一民族で二十余りの国が分立している。
又有夷洲及澶洲。伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙、不得。
また、夷洲及び澶洲有り。伝えて言う、秦始皇、方士・徐福をして童男女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求むれども、得ず。
また、夷洲(えびすじま)と澶洲(せんしゅう。せんにんじま)というのがあって、伝説では、秦の始皇帝は術使いの徐福に子ども数千人を引き連れて東の海に出航させ、この彼方まで蓬莱山に住むという仙人たちを探しに行かせたが、発見できなかった。
ことは「史記」に詳しい・・・いや、一緒ぐらいの詳しさの記述でしょうか。
このうち、「夷洲」は台湾に比定されているのですが、「澶洲」は日本本土、南九州や紀州ではないかという痕跡もあります。
徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有数万家。
徐福、誅を畏れてあえて還らず、遂にこの洲に止まり、世世相承して、数万家有り、という。
徐福は、始皇帝にぶっ殺されると思って、無理してまで帰ってこず、その地にとどまって、以来代々子孫に跡をついで、今では数万戸の家に分かれているということだ。
人民時至会稽市。会稽東治県人有入海行遭風、流移至澶洲者、所在絶遠、不可往来。
人民の時に会稽の市に至る。会稽東治県の人、海に入りて行くに風に遭いて、流移して澶洲に至る者有るも、所在絶遠にして往来すべからざるなり。
夷洲や澶洲の人民で、会稽の市場まで買い出しに来ているやつもいるようだ。会稽・東治のひとの中には、海洋に乗り出すひともあり、彼らが海で風に吹かれて、流されて澶洲に至った例もあるという。だが、そこはあまりに遠いので、定常的に行き来することは不可能であろう。
市場まで買い出しに来るとは。爆買いしてるんでしょうか。
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「後漢書」巻八十五「東夷列伝」より。流れて行くと大変ですね。
ところで、ほぼ同時代の記録(三国・呉の沈熒「臨海水土志」)によると、
夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山渓。
夷洲は臨海の東南、郡を去ること二千里に在り。土地に霜雪無く、草木死せず。四面これ山渓なり。
夷洲(えびすじま。台湾?)は、臨海郡から東南に二千里(800キロ)離れたところにある。その地には、霜や雪が無く、草や木は枯れることがない(常緑である)。島の四方は山と谷ばかりである。
そこの原住のみなさんは、
人皆髠髪穿耳。女人不穿耳。
人はみな髪を髠(こん)にし、耳を穿つ。女人穿たざるのみ。
ひとびとはみんな髪の頭頂部を剃っており、耳には(玉をぶらさげるための)穴をあけている。女は空けていない。
昨日の「ひやこ」と違って、無能力なのでしょう。
土地饒沃、既生五穀、又多魚肉。
土地饒沃にして、既(つね)に五穀を生じ、また魚肉多し。
土地はものが実りやすい豊饒の地であり、いつの季節にもコメ・ムギ・マメ・ヒエ・キビなどの五穀がよく稔り、また魚にも恵まれている。
これも食ったのだと思いますが、
有犬、尾短如麕尾状。
犬有り、尾短くして麕(きん)の尾の状の如し。
地元原産のイヌがいて、しっぽが大鹿(ノロ)のしっぽのように短いのが特徴である。
此夷舅姑子帰臥息共一大牀、略不相避。
この夷、舅姑の子帰りて臥息するに一大牀を共にし、ほぼ相避けず。
ここの現住民の方がたは、舅・姑と息子、その嫁らが夜に家で休憩し眠るときには、大家族で大きなベッドをともにする、という風習があり、生活の中で男女が触れ合うことをあまり嫌がらない。
また、
地有銅鉄、唯用鹿格為矛以戦闘、摩礪青石以作弓矢鏃。
地に銅鉄有り、ただ鹿格に用うるのみならず、矛を為りて以て戦闘し、青石に摩礪して以て弓矢の鏃を作る。
その地では、銅や鉄が生産される。シカを閉じ込める檻に使うだけではなく、ホコを作って戦闘に用いたり、青い砥石で研いで、弓矢の鏃に作ることもできる。
取生魚肉、雑貯大瓦器中、以塩鹵之、歴月所日、乃食啖之、以為上肴。
生魚肉を取りて、大瓦器の中に雑貯し、塩を以てこれを鹵(ろ)して、月を歴し日を所して、すなわちこれを食啖し、以て上肴とす。
生の魚の肉を持ってきて、巨大な土器の中にいろんなものと一緒に貯え、塩漬けにして、月日を記録しておいて、一定の日にはこれを出して来て食い、最高のおかずとしている。
なんだそうなんです。塩からのどぎついのとか、美味そうです。ああ、なんと野蛮な人たちでありましょうか。
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