7月12日 総体としての肝冷庵は忘れていました

独儲大船(独り大船を儲(たくわ)う)(「後漢書」)

先々週、6月27日に「後漢書」の任文公の伝を紹介して、
「次回に続く」
としておいて、忘れてました。
肝冷庵は数人で交替で更新しているので、なかなかすぐに機会が回ってこないんですよ、ということがよくわかってもらえると思います。肝冷庵内部ではみんなめんどくさいので押し付け合っているのが実情ですが、今日はとうとうわしの番が回ってきましたんじゃ。

約30メートルもの洪水になったらおいらも溢れちゃうよ。

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6月27日に、もうすぐ大水害が来るから準備しろ、と上司の刺史(太守)に諫言したのですが、相手にされなかった任文公、上司の反応などお構いなしに、

独儲大船。百姓或聞、頗有為防者。

「儲」(ちょ)は「跡継ぎ」「太子」のことですが、後継ぎを設けておく、ということから「たくわえる」とか「まつ」という意味になります。「もうける、利益を得る」というのは、日本での使われ方。

到其日旱烈、文公急命促載、使白刺史、刺史笑之。

ところが、である。

日将中、天北雲起、須臾大雨。至晡時、江水涌起十余丈、突壊廬舎、所害数千人。

「晡」(ほ)は申刻ごろ、だいたい午後四時過ぎです。夕暮れが近づく時間で、むかし(二食のころ)は夕食を始める時間だったそうです。

以来、

文公遂以占術馳名、辟司空掾。平帝即位、称疾帰家。

その後、王莽の簒奪(紀元8年)があった。そのことも予測していたのだろう。

このころ、文公はどういうわけか、

課家人負物百斤、環舎趨走、日数十、時人莫知其故。

何かの「ごっこ」であろうか。実は、鍛えていたのです。

後、兵寇並起、其逃亡者少能自脱、惟文公大小負糧倢歩、悉得完免。遂奔子公山、十余年不被兵革。

やっぱり鍛えておくことは必要ですね。

後漢の初期、蜀の地は、公孫述が独立政権を樹立していた(紀元25~36)が、その時期、

蜀武担石折。

「武担石」というのは、古代の蜀の王さまが妃(この妃は男子が変じたもので、実は山の精であったとかなんとかいう)のために作った古墳に置いた巨大な石鏡で、何人もの武士が担いで運んだというので「武担石」といったのだそうです。

それを聞いた文公は言った、

噫。西州智士死。我乃当之。

自是常会聚子孫、設酒食、後三月果卒。

蜀地方では、それからも長い間、

為之語曰、任文公、智無双。

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「後漢書」巻八十二上・「方術伝」上より。どういう術だったんでしょう。現代では「新自由主義の知恵、無双なり」と言われますから、役に立つ術なら、ハー〇ード経営大学院などで教えているかも知れません。教えてなければ価値は無い。わしは肝冷庵の中では屈指の進歩派なのじゃ。すごい進歩派ばかり?であろう官僚の皆さんと議論するほどではありませんが。

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