独儲大船(独り大船を儲(たくわ)う)(「後漢書」)
先々週、6月27日に「後漢書」の任文公の伝を紹介して、
「次回に続く」
としておいて、忘れてました。
肝冷庵は数人で交替で更新しているので、なかなかすぐに機会が回ってこないんですよ、ということがよくわかってもらえると思います。肝冷庵内部ではみんなめんどくさいので押し付け合っているのが実情ですが、今日はとうとうわしの番が回ってきましたんじゃ。

約30メートルもの洪水になったらおいらも溢れちゃうよ。
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6月27日に、もうすぐ大水害が来るから準備しろ、と上司の刺史(太守)に諫言したのですが、相手にされなかった任文公、上司の反応などお構いなしに、
独儲大船。百姓或聞、頗有為防者。
独り大船を儲(たくわ)う。百姓あるいは聞きて、頗る防を為す者有り。
「儲」(ちょ)は「跡継ぎ」「太子」のことですが、後継ぎを設けておく、ということから「たくわえる」とか「まつ」という意味になります。「もうける、利益を得る」というのは、日本での使われ方。
勝手に巨大な船を造って用意しておいた。民草の中には、任文公の言動を聞いて、「あのひとが言うなら」ときちんと準備をする者もいた。
到其日旱烈、文公急命促載、使白刺史、刺史笑之。
その日に到るに旱烈、文公急命して載するを促し、刺史に白せしむるも、刺史これを笑えり。
その日になったが、空模様はカンカン照りだ。だが、文公は(自分たちが乗船するとともに)急ぎの使いを遣わしてきて、早く船に乗れと知事に促した。知事はそれを笑って、取り合わなかった。
ところが、である。
日将中、天北雲起、須臾大雨。至晡時、江水涌起十余丈、突壊廬舎、所害数千人。
日まさに中せんとするに、天北に雲起こり、須臾にして大雨となる。晡時に至るに、江水涌起すること十余丈、廬舎を突壊して、害するところ数千人なり。
「晡」(ほ)は申刻ごろ、だいたい午後四時過ぎです。夕暮れが近づく時間で、むかし(二食のころ)は夕食を始める時間だったそうです。
太陽がちょうど南中しようという時刻、北の方の空に雲が湧き始め、あっという間に大雨になった。午後四時ごろには、川の水が30メートルぐらい(一丈≒2.3メートル)湧きあがり始めて、家や小屋を突き壊して、数千人が死んでしまった。
以来、
文公遂以占術馳名、辟司空掾。平帝即位、称疾帰家。
文公遂に占術を以て名を馳せ、司空掾に辟(まね)かる。平帝の即位するに及んで、疾を称して帰家せり。
文公はとうとう「うらない」を以て有名になり、前漢の終り頃、大審院の事務官として召された。しかし、平帝が即位(紀元前1年)すると、病気だといって郷里に帰ってきた。
その後、王莽の簒奪(紀元8年)があった。そのことも予測していたのだろう。
このころ、文公はどういうわけか、
課家人負物百斤、環舎趨走、日数十、時人莫知其故。
家人に課して物百斤を負いて、舎を環りて趨走せしむること、日に数十、時人その故を知ること莫し。
家の子郎等たちに22キロぐらい(当時の一斤≒220グラム)の荷物を背負わせて、屋敷の回りを毎日数十回ぐるぐる走り回らせていた。
何かの「ごっこ」であろうか。実は、鍛えていたのです。
後、兵寇並起、其逃亡者少能自脱、惟文公大小負糧倢歩、悉得完免。遂奔子公山、十余年不被兵革。
後、兵寇並びに起こり、その逃亡者よく自脱する者少なきも、文公のみ大小とも糧を負いて倢歩し、ことごとく完免を得たり。遂に子公山に奔り、十余年兵革を被らず。
やがて、反王莽政権の反乱兵とそれに対する鎮圧軍がこもごも起こり、それから逃げようとする者も自力で脱出できた者は少なかったのだが、文公の一族だけは、大人も子どもも、自分の食糧を背負って早歩きすることが出来、全員、被害を受けなかった。一族で子公山の山中に逃げ隠れてしまい、それから十年以上、戦災も革命による粛清も免れていたのである。
やっぱり鍛えておくことは必要ですね。
後漢の初期、蜀の地は、公孫述が独立政権を樹立していた(紀元25~36)が、その時期、
蜀武担石折。
蜀の武担石、折る。
蜀で名高い武担石(ぶたんせき)がぽきりと折れてしまった。
「武担石」というのは、古代の蜀の王さまが妃(この妃は男子が変じたもので、実は山の精であったとかなんとかいう)のために作った古墳に置いた巨大な石鏡で、何人もの武士が担いで運んだというので「武担石」といったのだそうです。
それを聞いた文公は言った、
噫。西州智士死。我乃当之。
噫(い)。西州の智士死なん。我すなわちこれに当たる。
「おお。西の地方(蜀)の賢者が一人死ぬな。どうやらわしがそれに該当するのであろう」
自是常会聚子孫、設酒食、後三月果卒。
これより常に子孫を会聚し、酒食を設け、後三月にして果たして卒す。
それ以降は、毎日のように子どもや孫を集めて酒とメシで宴会していたが、三か月後に本当に死んでしまった。
蜀地方では、それからも長い間、
為之語曰、任文公、智無双。
これがために語りて曰く、「任文公、智無双なり」と。
このためにこんな言い方があったそうである。
「おまえさんは知恵があるね、任文公には敵わないだろうけど」
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「後漢書」巻八十二上・「方術伝」上より。どういう術だったんでしょう。現代では「新自由主義の知恵、無双なり」と言われますから、役に立つ術なら、ハー〇ード経営大学院などで教えているかも知れません。教えてなければ価値は無い。わしは肝冷庵の中では屈指の進歩派なのじゃ。すごい進歩派ばかり?であろう官僚の皆さんと議論するほどではありませんが。
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