是天助我(これ、天の我を助くるなり)(「淮南子」)
昼間は暑かったけど、天が怒って雨降らせたので涼しくなりました。ああもう秋が来ると思います。夏と争わないうちに夏に勝ったのだ。

祈れば助けてもらえる・・・かも。まずは居場所をつくろう。
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前五世紀の前半のころのことでございますが、晋の実力者である趙簡子が亡くなってまだその葬儀もすまない時、晋の属邑である中牟(ちゅうぼう)が斉に所属する旨を宣言した。
簡子の葬儀を終えて五日後、後継ぎの趙襄子が
起兵攻囲之。未合而城自壊者十丈。
兵を起こしてこれを攻囲す。いまだ合わざるに城の自ら壊るること十丈なり。
当時の一丈≒2.25メートル。
出兵して、中牟の城を包囲した。そのあと、まだ合戦にならないうちに、なんと、中牟の城の石塁が20メートル余りにわたって崩れてしまった。
これを見て、
「よし!」とばかりに、
趙襄子撃金而退之。
趙襄子、撃金してこれを退かしむ。
じゃーん、じゃーん、じゃーん。
趙襄子は、(前進の合図である太鼓ではなく)後退の合図である金属の鐘を打ち鳴らしたのであった。
「ちょっと待ちなはれ」
軍吏諫曰、君誅中牟之罪、而城自壊、是天助我。何故去之。
軍吏諫めて曰く、君、中牟の罪を誅せんとして、しかも城自ら壊るるは、これ、天の我を助くるなり。何故ぞこれを去らしむか、と。
軍の役人が諫言して言った、
「とのさまは中牟の罪を征伐しに来たはずですぞ。そこに、城壁が勝手に崩れたのです(おそらく手入れが悪かったのでしょう)。そこに攻めこめ、と天が我々を助けてくれたのではありませんか。どうして後退させるんでっか」
と。
趙襄子は言った、
吾聞之叔向、曰、君子不乗人於利、不迫人於険。
吾、これを叔向に聞けり、曰く、君子は人に乗ずるに利においてせず、人に迫るに険においてせず、と。
わしは(斉の賢者)叔向にこう教えてもらった。
「ちゃんとした人は、自分の利益になりからといって、相手の不利に乗じない。相手が動きづらいところにいる時には、攻めかからないものじゃ。(怨恨を遺してはなりませんぞ)」
と。
そして、
使之治城、城治而後攻之。
これをして城を治めしめ、城治まりて後、これを攻めんとす。
中牟軍に城壁を修理させて、修理が終わってから攻めることにした。
中牟聞其義、乃請降。
中牟その義を聞き、すなわち降を請う。
中牟の指導者たちはその道義心を聞いて、(「もともと我々は晋に正義が無いといって斉についたのであった。しかし、今度の晋の指導者は正義のひとではないか」と言って、)降伏することを申し出てきた。
故老子曰、夫唯不争、故天下莫能与之争。
故に、老子に曰く、「それ、ただ争わず、故に天下これとよく争う莫し」と。
そういうわけで、老子第66章に書いてあるとおり、
彼は争おうとしない。それだけなのだが、それによって、天下の誰も、彼と争うことはできない。
のである。
「老子」第66章は、先代の肝冷齋が平成30年11月4日に解説しているみたいです。
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「淮南子」巻十二「道応訓」より。やっぱり老子は実務に役立つなあ。これからの戦国時代には、きれいごとばかり言って礼儀のような面倒なものを守らせようとしてくる儒家ではダメだな。防衛戦争に役に立つ「墨子」や内政の考え方を統一できる「法家」もいいけど、やはり基本は現実的な指針になる老子の学だ。これは間違いない。
このあと前漢のはじめごろまでの思想界はこんな考え方です。
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