無事亦忙(事無けれどまた忙(いそが)わし)(「伝習録」)
どうしようどうしようと、やることあんまりないけど忙しい。

ちくたくちくたく忙しいのじゃ!何かを作り出しているわけではないんじゃが。
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「先生、訊きたいことがあるんですわー」
と欧陽徳が言った。
「何や。言うてみい」
「えーと、おれ、あほやから、うまいことよう言わんのですけど、
尋常意思多忙。有事固忙、無事亦忙、何也。
尋常意思多忙なり。事有れば固より忙わしきも、事無ければまた忙わしきは、何ぞや。
いつも心の中が忙しくてしようがないんです。何か仕事があれば忙しいのは当たり前ですが、何も仕事が無くても忙しいんです。どうしてでしょうか。」
「そんなの自分で考えろ、おれは忙しいんだ!」
と言うかと思ったのですが、そんなこと言わずに、先生は言った、
天地気機、元無一息之停。
天地の気機は、もとより一息の停無し。
そうだなあ、天地の気のバネは、確かに一呼吸の間も停まることがない。
天地・宇宙はいつも動いているのだ。
然有箇主宰。故不先不後、不急不緩、雖千変万化、而主宰常定、人得此而生。
然るに、箇の主宰有り。故に、先んぜず後れず、急ならず緩ならず、千変万化すといえども、主宰常に定まれば、人これを得て生ず。
だが、(いつも言っている)あの主宰=自分自身がいるだろう。それがいれば、天地の動きに対して先んじることもなく後れることもなく、急いでしまうこともなければのんびりしすぎることもなく、天地の動きが千変万化したとて、自分自身がいつもきちんと定まってるなら、人間はそれを頼りに、生きていくことができるのである。
若主宰定時、与天運一般不息、雖酬酢万変、常是従容自在。所謂天君泰然、百体従令。
もし主宰定まる時は、天運と一般にして息(や)まず、万変に酬酢(しゅうさく)するといえども、常にこれ従容(しょうよう)自在なり。いわゆる「天君泰然たれば、百体令に従う」なり。
自分自身がしっかり定まっていれば、天のめぐりと一緒で休むこと無く、万物の変化に対応しても、つねに自由自在である。いわゆる「主宰者くんがどっしりしていれば、体はすべていいなりになる」という状態だ。
「酬酢」は酒偏がついていますように、飲酒用語、お酒を勧めると勧められる、すなわち「さしつ、さされつ」のことです。それを借りて、ここでは「すぐに対応する」ことを言っています。
「天君泰然、百体従令」については、下の方参照。
若無主宰、便只是這気奔放、如何不忙。
もし主宰無ければ、すなわちただこれ、這(こ)の気奔放し、如何ぞ忙わしからざらん。
もし自分自身が存在しないなら、ただもう、その気というものが走り回っているだけだから、忙しくないことがどうしてできようか。
いつも忙しくなってしまいますよね。
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明・王陽明等「伝習録」巻上より。いつも忙しいのはなぜかわかっていただけましたでしょうか。おれはあほやからあんまりようわからんけど。
※「天君泰然、百体従令」
この言葉は、宋の范俊というひとの「心箴」(心に関する教訓)に出てくる言葉です。この言葉が「いわゆる(所謂)」と言われるほど誰でも知っているぐらい有名になったのは、南宋・朱晦庵の「四書集注」の中で、「孟子」告子上篇の「鈞是人也章」の注釈に使われたからです。以来、科挙試験を受ける人にとっては「試験によく出る四書熟語」になって、記憶せざるを得なくなったんです。
―――公都子という人が質問した。
鈞是人也。
鈞(ひと)しくこれ人なり。
(立派な大人も、卑劣な小人も、)同じく、人間ですよね。
それなのに、なぜ大人と小人に分かれてしまったのでしょうか―――。これに対して孟子は、心の働きである「思い」を使って本当の自分を探し出すことに成功すれば大人になるし、失敗すると小人になってしまうのだ、と答えているのですが、朱子がそれにコトバの説明とかいろいろした上で、最後に、
・・・ところで、范俊の「心箴」にこう書いてあるぞ。
茫茫堪輿、俯仰無垠。人於其閒、眇然有身。
茫茫たる堪輿は、俯仰するも無垠(むごん)なり。
はるかに広がる天と地は、下を見ても上を見ても限りが無い。
是身之微、大倉稊米、参為三才、曰惟心耳。
これ身の微なるは大倉の稊と米なるに、参じて三才と為るは、曰くこれ心のみ。
この体は(天地に比べれば)巨大な倉とその中の米粒や米粒のかけらみたいに小さい。それなのに、(「易」によれば)人間は、天・地と三本柱になって、世界の三つの材料だという。それはただ、「心」があるからだ。
往古来今、孰無此心。
往古来今、孰(た)れかこの心無からん。
はるか原始の時代から今に至るまで、「心」の無かった人間がいるだろうか。
心為形役、乃獣乃禽。惟口耳目、手足動静、投閒抵隙、為厥心病。
心の形に役(えき)せらるるは、すなわち獣、すなわち禽なり。これ口・耳・目、手足の動静して、投閒し抵隙すれば、ために厥(そ)の心病まん。
それなのに、心がからだに使われてしまっているようなら、それはケモノである、それはトリである。人間とはいえない。ただ口や耳や目の快楽を求め、手足を動かしたり休ませたりして、間に入れたり隙間を抑えたりしていたら、その人の心が病んでしまって当然である。
一心之微、衆欲攻之。其与存者、嗚呼幾希。
一心の微にして衆欲これを攻む。それ存に与(あず)かるもの、嗚呼ほとんど希(まれ)なり。
心は小さいものであるのに、それをあまりにたくさんの欲望で攻め立てるのだから、健康なまま残されているものは、・・・ああ、きわめて少ないのではないだろうか。
以上のことをよくよく考えてくださいよ。
君子存誠、克念克敬。天君泰然、百体従令。
君子誠を存して、よく念いよく敬わん。天君泰然たれば、百体令に従う。
よき人は誠意を持って、すばらしく考え、すばらしく行動することだろう。(その人の中に)主宰者くんがどっしりしていれば、体はすべていいなりになる。
んだそうです。
先代の肝冷斎が平成30年6月4日に紹介しているみたいですが、科挙試験を目指している人もいるかも知れないので、七年に一回ぐらいご紹介しておきます。
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