伏而飛焉(伏してここに飛ぶ)(「湯顕祖集」)
突然飛んだらびっくりしますよね。

カサコソ、カサコソ・・・突然、
びょーーーん!!
と行きますよ!
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昨日に引き続き、明の萬暦年間のことですが、
天下文章所以有生気者、全在奇士。
天下の文章に生気有る所以のものは、すべて奇士に在り。
この世の文章に生き生きした気分があるとすると、それはすべて「へんなやつ」のおかげなのだ。
士奇則心霊。心霊則能飛動、能飛動則下上天地、来去古今、可以屈伸長短生滅如意。
士、奇なれば心、霊なり。心、霊なれば能く飛動し、能く飛動すれば、天地を下上し古今を来去し、以て屈伸し長短し生滅するも如意なるべし。
そいつが変なら、心が測り知れない力を持つ。心が測り知れない力を持つなら、飛びはねて動くことができる。飛びはねて動けるなら、天と地の間を上下し、過去と未来の間を往復し、さらに縮んだり伸びたり長くなったり短くなったり、生まれたり消滅したり、すべて思うがままである。
如意則可以無所不如。
如意ならば以て如(にょ)ならざるところ無かるべし。
思うがままなら、真実でないところなどあるはずがない。
ここの「如」(にょ)を、仏教用語の「真如」(あるがままの世界)と解してみました。
彼言天地古今之義而不能皆如者、不能自為其意者也。不能如意者、意有所滞、常人也。
彼は言う、天地古今の義にしてみな如なる能わざるものは、自らその意を為して能わざるものなり、と。如意なること能わざるものは、意に滞るところ有りて常人なり。
そいつ(変なやつ)は言うだろう、「天地や過去未来の問題で、すべてが思うがままにいかない、という者は、自分の意志を遂行できないやつだ」と。思うがままにできないやつは、意志が遂行できないのだから、「ふつうの人」であろう。
(訳者曰く、わたしは普通の人で十分ですが。)
さて、
蛾、伏也。伏而飛焉、可以無所不至。当其蠕蠕時、不知其能至此極也。
蛾は伏せるなり。伏してここに飛べば、以て至らざるところ無かるべし。その蠕蠕(ぜんぜん)の時に当たりてはその能くこの極に至るを知らざるなり。
蛾を見てみろ。(幼虫のときは)もぞもぞ這っているではないか。ところが、這っていたやつが突然飛ぶのだ。それなら行けないところは無いだろう。だが、蛾がもぞもぞしていた時には、それがよくこんなに飛び回れるようになるなんて、誰が想像しただろうか。
蛾こそ、奇士(変なやつ)である。
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明・湯顕祖「序丘毛伯稿」(丘毛伯の稿に序す)(「湯顕祖集」所収)より。急に飛ぶと、怖いですね。夏が本格化してまいりました。そろそろ虫の季節だ。
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