我無此意(我にこの意無し)(「清通鑑」)
わたしの考えでこんなことになったのではないのです。誰かにそそのかされたのかも知れません。

おれ、意外と神経質でストレスに弱い生物で、↓こんなにおっかなくないんですけど。
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清末、光緒二十四年(1898)八月四日(新暦では九月十九日だそうです)の朝、西太后が頤和園から皇宮に戻られるというので、
上詣宮門請安、太后已由間道入西直門、車駕倉皇而返。
上、宮門も詣りて請安せんとするに、太后すでに間道に由りて西直門に入り、車駕倉皇として返す。
光緒帝は宮廷の門まで出かけて太后にご機嫌伺いをしようとしたが、太后はすでに別の近道を通って西直門から入られたというので、皇帝の車列は大慌てで引き返した。
太后直抵上寝宮、尽括章疏携之去、召上怒詰。
太后、上の寝宮に直抵し、尽く章疏を括りてこれを携え去って、上を召して怒詰す。
太后さまは、皇帝の寝室に直接入り(それを案内する宦官がいるわけです)、そこにあったすべての上奏文を束にして手に持っていき、皇帝を呼び出して怒りながら問詰した。
この束の中には、西太后を頤和園に監禁してしまうべし、という康有為らの上奏も入っているはずなのです。(すでに情報は太后のもとに届けられていたのですが。)
太后はおっしゃった。
我養汝二十余年、乃聴小人之言謀我乎。
我、汝を養うこと二十余年、乃(なんじ)小人の言を聴きて我を謀るか。
「わたしはおまえを二十何年にわたって養い育ててやった。そのおまえが(康有為らの)クズどもの言葉を聴いてわたしをどうこうしようとするのかい!」
光緒帝は、西太后にとっては夫(咸豊帝)の弟の子、かつ、自分の妹の子に当たります。わが子(同治帝)の死後、本来、同世代(従兄弟にあたる)の皇帝は清朝ではありえなかったのですが、まだ三歳だった光緒帝が西太后によって擁立された、という経緯があります。
上戦慄不発一語、良久囁嚅曰、我無此意。
上、戦慄して一語を発せず、やや久しくして囁嚅(しょうじゅ)して曰く、「我、この意無し」と。
「囁嚅」(しょうじゅ)は、「しゃべろうとしてしゃべれないこと」「もごもごする」という意味の熟語です。
皇帝はおそれおののいて一言もしゃべれなかった。だいぶん間を置いてから、ようやくもごもごと口ごもりながら、言った、
「わ、わたしの考えでは、あ、ありませんでした・・・」
太后唾之曰、痴児、今日無我、明日安有汝乎。
太后これに唾して曰く、「痴児、今日我無ければ、明日いずくんぞ汝有らんや」と。
太后さまは、皇帝に唾を吐きかけて、言った、
「このどあほうが! 今日わたしがいなくなったら、明日はおまえもいられなくなるってことがわかってないのかね!」
そして、
遂伝懿旨、以上病不能理万機為辞、臨朝訓政。
遂に懿旨(いし)を伝え、上、病みて万機を理する能わざるを以て辞を為し、臨朝して訓政す。
「懿旨」(いし)は「女性のよい言葉」、政治用語としては皇后や太后の命令のことです。
ついに太后の勅命を朝廷に伝達させた。すなわち、皇帝は病気のため政治活動ができなくなったことを理由として文書を作成し、(今後は、太后が)朝廷の会議に出席して、政治を指導することとしたのである。
百日維新、終わりました! 光緒帝を軟禁、そして粛清が始まるよ!
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「清通鑑」巻二五五より。この日(あるいは二日後とも)の動きについてはいくつか説があるらしいのですが、これは当時翰林院侍講として事件のすぐあとに状況を聞き、懿旨の作成にも関与したと思われる惲毓鼎(うん・いくてい)の記録に拠る、とのことです。
「清通鑑」、やっとここまで来ました。あと12年で終わりだ。しかし、まだあと三巻半もあるんです。
なお、「皇帝のくせになんと弱気な。ばーん、と言ってやればいいのに」と思う人がいるかも知れませんが、軍隊も宮廷内の警察権も抑えられているのですから、しようがないですね。なによりヘビの前のカエルの身にもなってほしいものです。ウミガメなら大丈夫ですが。
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