6月29日 明日はもちろん来週の準備何もしてない

我無此意(我にこの意無し)(「清通鑑」)

わたしの考えでこんなことになったのではないのです。誰かにそそのかされたのかも知れません。

おれ、意外と神経質でストレスに弱い生物で、↓こんなにおっかなくないんですけど。

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清末、光緒二十四年(1898)八月四日(新暦では九月十九日だそうです)の朝、西太后が頤和園から皇宮に戻られるというので、

上詣宮門請安、太后已由間道入西直門、車駕倉皇而返。

太后直抵上寝宮、尽括章疏携之去、召上怒詰。

この束の中には、西太后を頤和園に監禁してしまうべし、という康有為らの上奏も入っているはずなのです。(すでに情報は太后のもとに届けられていたのですが。)

太后はおっしゃった。

我養汝二十余年、乃聴小人之言謀我乎。

光緒帝は、西太后にとっては夫(咸豊帝)の弟の子、かつ、自分の妹の子に当たります。わが子(同治帝)の死後、本来、同世代(従兄弟にあたる)の皇帝は清朝ではありえなかったのですが、まだ三歳だった光緒帝が西太后によって擁立された、という経緯があります。

上戦慄不発一語、良久囁嚅曰、我無此意。

「囁嚅」(しょうじゅ)は、「しゃべろうとしてしゃべれないこと」「もごもごする」という意味の熟語です。

太后唾之曰、痴児、今日無我、明日安有汝乎。

そして、

遂伝懿旨、以上病不能理万機為辞、臨朝訓政。

「懿旨」(いし)は「女性のよい言葉」、政治用語としては皇后や太后の命令のことです。

百日維新、終わりました! 光緒帝を軟禁、そして粛清が始まるよ!

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「清通鑑」巻二五五より。この日(あるいは二日後とも)の動きについてはいくつか説があるらしいのですが、これは当時翰林院侍講として事件のすぐあとに状況を聞き、懿旨の作成にも関与したと思われる惲毓鼎(うん・いくてい)の記録に拠る、とのことです。

「清通鑑」、やっとここまで来ました。あと12年で終わりだ。しかし、まだあと三巻半もあるんです。
なお、「皇帝のくせになんと弱気な。ばーん、と言ってやればいいのに」と思う人がいるかも知れませんが、軍隊も宮廷内の警察権も抑えられているのですから、しようがないですね。なによりヘビの前のカエルの身にもなってほしいものです。ウミガメなら大丈夫ですが。

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