6月24日 人間としての徳を磨いていないようでは

以為不可(以て不可と為す)(「陸象山語録」)

徳がないとやっぱりダメ出しされます。メールで解雇されるかも。おうべいだと徳があってもダメか。

若いうちにもっと徳性を磨いておけばなあ。

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まずは、「中庸」第二十七章の一節を読んでみてください。

君子尊徳性而道問学。

いい言葉だなあ。十回も二十回も読んで、心と体のすみずみまで理解を行きわたらせなければなりません。

さて、宋の時代のことですが、わしのライバルにして友人の朱元晦どのは、

曾作書与学者、云。

以前、ある弟子に手紙を書いて、こう言ったそうじゃ。

陸子静専以尊徳性誨人。故游其門者多践履之士、然於道問学処欠了。某教人豈不是道問学処多了些子。故游某之門者践履多不及之。

「なんじゃと」「大きなお世話じゃ」「まったくですなあ」

まあまあ。

観此、則是元晦欲去両短、合両長。

「まあそれはそうかも」「両方大事ですからね」「いや、だが、どうかな」

然吾以為不可。

「そ、そうですな」「な、なるほど、目を開かされました」「わしの言ったとおり・・・いやいや」

既不知尊徳性、焉有所謂道問学。

「そ、そうじゃ」「やっぱりなあ、わしもそう思ってました」「当然でしょう」

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宋・陸子静「象山語録」上より。ライバル(とはいえ朱元晦が十歳以上年上)から認められて、うれしそうですね。

それにしてもこのテーマ、尊徳性と道問学、いいかえれば「誠」と「明」、どちらが先か、というのは宋明時代の儒学者の大問題なんです。日本でも大問題になっています(江戸時代までですが)。

みなさんも、「本でも読んで勉強するか」と思っても「いやいや、まずは徳を大切にしてからだ」と思えば勉強できませんし、「徳を大切にして人間を磨くぞ」と思っても「いやいや、徳とは何ぞやということを含めて本を読んで勉強しなければ」と思えば人間を磨くこともできません。しようがないのでそのままにして、今に至っているのでは?

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