以為不可(以て不可と為す)(「陸象山語録」)
徳がないとやっぱりダメ出しされます。メールで解雇されるかも。おうべいだと徳があってもダメか。

若いうちにもっと徳性を磨いておけばなあ。
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まずは、「中庸」第二十七章の一節を読んでみてください。
君子尊徳性而道問学。
君子は徳性を尊び、問学に道(よ)るなり。
おまえさんたちは、人間としての徳を大切にし、学問によって進んでいかなければなりませんぞ。
いい言葉だなあ。十回も二十回も読んで、心と体のすみずみまで理解を行きわたらせなければなりません。
さて、宋の時代のことですが、わしのライバルにして友人の朱元晦どのは、
曾作書与学者、云。
かつて、書を作して学者に与えて云うあり。
以前、ある弟子に手紙を書いて、こう言ったそうじゃ。
陸子静専以尊徳性誨人。故游其門者多践履之士、然於道問学処欠了。某教人豈不是道問学処多了些子。故游某之門者践履多不及之。
陸子静専ら尊徳性を以て人に誨う。故にその門に游ぶ者、多く践履の士なり、然るに道問学の処に欠けたり。某の人を教うる、あに道問学の処に些子(さし)を多くこれせざらんや。故に某の門に游ぶ者、践履多くこれに及ばざるなり。
「陸子静(象山先生・陸九淵、すなわちわしを字で呼んだもの。ライバルと考えているのだろう)は、「中庸」でいう「人間としての徳を大切にする」ことばかりを人に教えているので、あいつの門下で学んでいる者(わしの弟子、すなわちおまえたちのことじゃ)は、道徳を実行している者が多い。だが、学問によって進むことはできてないようじゃなあ」
「なんじゃと」「大きなお世話じゃ」「まったくですなあ」
まあまあ。
観此、則是元晦欲去両短、合両長。
これを観るに、すなわちこれ、元晦、両短を去りて両長を合さんと欲すならん。
この言い方をみたところでは、元晦どのは、(尊徳性と道問学の)両方の欠点を取りさって、両方のいいところを合わせて得させようと教えておられるのだろう。
「まあそれはそうかも」「両方大事ですからね」「いや、だが、どうかな」
然吾以為不可。
然れども吾以て不可と為す。
だが、わしは、それではダメだ、と考えているのじゃ。
「そ、そうですな」「な、なるほど、目を開かされました」「わしの言ったとおり・・・いやいや」
既不知尊徳性、焉有所謂道問学。
既に徳性を尊ぶを知らず、いずくにか謂うところの道問学有らん。
人間としての徳を大切にすることを知らないままで、どこに学問をして進む道があるのか。
「そ、そうじゃ」「やっぱりなあ、わしもそう思ってました」「当然でしょう」
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宋・陸子静「象山語録」上より。ライバル(とはいえ朱元晦が十歳以上年上)から認められて、うれしそうですね。
それにしてもこのテーマ、尊徳性と道問学、いいかえれば「誠」と「明」、どちらが先か、というのは宋明時代の儒学者の大問題なんです。日本でも大問題になっています(江戸時代までですが)。
みなさんも、「本でも読んで勉強するか」と思っても「いやいや、まずは徳を大切にしてからだ」と思えば勉強できませんし、「徳を大切にして人間を磨くぞ」と思っても「いやいや、徳とは何ぞやということを含めて本を読んで勉強しなければ」と思えば人間を磨くこともできません。しようがないのでそのままにして、今に至っているのでは?
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