煎餅才熟(煎餅わずかに熟す)(「唐摭言」)
炭水化物の焦げたものは美味いです。

タコ高いんでタコ入ってないのもあるけど、たこ焼きも食べたってやー。
何十年もすると関西博のキャラもこんなんだったと思われてしまうかも知れません。みんなすぐ忘れていきますから。
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唐もほとんど末ごろ、咸通(860~874)、乾符(874~879)年間に活躍した段維というひとは、その出身はよくわからない。あるいは貴族の御曹司であったとも、大富豪であったとも言う。四十代になったころ、
殊不知書、一旦自悟其非、聞中条山書生淵藪、因往請益。
ことに書を知らず、一旦自らその非を悟り、中条山に書生の淵藪(えんそう)せるを聞きて、因りて往きて請益す。
学問を全くしていなかったので、ある時、自らこれではダメだと思って、山西の中条山に学者がたくさん住んでいると聞き、そこに行って支援を請うた。
スキルの高度化を考えたのでしょう。
「淵藪」は、「淵」は魚の群れるところ、「藪」は獣の集まるところであるので、何かの集まっているところを「淵藪」というのである。なお、中条山は日中戦争の際、八路軍と日本軍の「百団大戦」の決定的な会戦が行われた場所として名高いですね。
だが、世の中は厳しく、
衆以年長猶未発蒙、不与授経。
衆、年長ぜるもなおいまだ発蒙せざるを以て、経を授くるに与(くみ)せず。
学者たちは、段が、いい年になっているのに、いまだに子どもの学ぶ初歩の勉強もしていないことから、経典の勉強をさせることに賛成しなかった。
その中で、ある人が、
以律詩百余篇、俾其諷誦。
律詩百余篇を以て、その諷誦をせしむ。
「作成のルールがはっきりしていて、典故も多く読み込まれる「律詩」をまず百何十篇が覚えて、声に出して唱えられるようになってみなされ」
と教えてくれた。チャイナは方言がひどいので、同じ文字でもいろんな発音があります。律詩を声に出して唱えられるというのは、標準語(「雅言」)を理解している、すなわち読書人である!という証拠にもなります。
もちろん、何か月かかけて、という話だったのですが、
翌日維悉能強記、諸生異之。因授之孝経。
翌日、維ことごとくよく強記し、諸生これを異とす。因りてこれに孝経を授く。
次の日には、段維はすべて暗記してしまっていた。
「ほう」
学者たちは「大したものではないか」と認め、「十三経」の最初の階梯である「孝経」の研究会に出席を許可した。
自是未半載、維博覧経籍、下筆成文、于是請下山求書粮。
これより半載ならずして、維、経籍を博覧し、下筆すれば文を成して、ここにおいて下山して書粮を求むるを請えり。
これ以降、半年もしないうちに、段維は経典・書籍を広く読みつくし、筆を落とせばすぐに文章ができるほどになって、山から出て学問を続けるための資金を稼ぎに行くことにした。
山西で、たまたま前知事が亡くなったというので、墓誌銘の書き手を探しているところに出くわし、
維立成数百言、有燕許風骨、厚獲濡潤。
維、立ちどころに数百言を成し、燕・許の風骨有りとして、厚く濡潤を獲たり。
段維はあっという間に数百文字の文章を完成させた。その文章は、8世紀半ばの玄宗皇帝の開元時代に活躍した燕国公・張説さまや許国公・蘇頲さまのような風格があったので、筆を濡らすことへの謝礼(濡潤=潤筆料)をたっぷりと得ることができた。
「燕許の風骨」の意味がわからず、明日はもう月曜なのに調べるの時間かかってしまいそうで、また遅刻して現役のやつに舌打ちとかされるのかと涙が滲んできたのですが、「盛唐の文章家の張説・蘇頲の二人のことである」と姜漢椿さんの注釈に書いてあったので助かりました。
ところで、彼は、
性嗜煎餅、嘗為文会、毎箇煎餅才熟、而維一韵賦成。
性として煎餅(せんへい)を嗜(この)み、つねに文会を為すに、毎箇の煎餅わずかに熟するに、維、一韵賦成れり。
この「煎餅」はわれわれが目にする「せんべい」や「濡れせんべい」というより、小麦粉を練って火を通した、「行田のフライ」とかお好み焼きの生地、をイメージしてもらった方がいいと思います。小型のお好み焼きである「〇〇焼」(まるまる焼き)がぴったり来そうなので、ここは「まるまる焼き」と訳しておきますね。識者に怒られたらその時は謝ります。先に謝っておいた方がよさそうかも。すんません。
本質的にまるまる焼きが大好きで、詩を作る会合に出席すると、まるまる焼きが一個焼けるまでに必ず一篇のかなり難しい詩を作った。
早く作ってまるまる焼きを人に与えずに食べたのである。
そういう点も含めて、
声名籍甚、竟無所成而卒。
声名、籍甚(せきじん)たるも、ついに成すところ無くして卒せり。
「籍甚」という熟語は、「籍さるること甚だし」(すごくあちこちで記録された)の意で、「名声や評判が高い」という意味になります。
あちこちで随分有名であったが、結局のところ、(地位も著作も名声も)何も残すことないまま死んでいった。
唐末(907年滅亡)の混乱期ですから仕方ない・・・かも知れません。
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五代・王定保「唐摭言」巻十より。「ついに成すところ無し」とはいえ、生きている間は「籍甚」であったとは、立派です。
アメリカがイランの核施設を攻撃しました。われわれもいろいろやられましたが、この八十年ぐらいは世話になってます。遣唐船沈められたぐらいならガマンできる・・・と思います。イランはガマンできるか。
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