私謝執政(執政に私謝す)(「何氏語林」)
夏の異動期です。誰か挨拶に来ないかなあ。「がんばれ」と言ってあげたいなあ。

おれは「むしヒーロー」最強昆虫ブリキ―ゴだ。がんばってみんなの家に何十匹も一緒に現れるぜ。待っててくれよ。
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北宋のひと、馮拯は河南の人である。太宗皇帝の時に早く太子を立てるべきことを請うて帝王の家のことに口出ししたと断罪され、嶺南に流謫されたが、後、真宗が立つとその忠義を称賛されて
被用、至宰相。無文学、而性伉直。
用いられ、宰相に至る。文学無けれども、性は直の伉なり。
重用され、宰相にまでなった。文章や学問は無かったが、性格は剛直の類であった。
と、司馬光「涑水紀聞」に評されているひとですが、彼が宰相府にいたとき、
孔道輔初拝正言、詣馮許謁謝。
孔道輔、初めて正言を拝し、馮の謁謝を許すに詣づ。
孔道輔は、諫言を掌る御史になったので、人事権を持つ宰相である馮のところに挨拶を申し入れたところ、面会できるというので訪問した。
型どおりの挨拶をした道輔に、馮宰相は言った、
天子用君作諫官。豈宜私謝執政。
天子、君を用いて諫官と作す。あに私に執政に謝すべけんや。
「陛下は、おまえさんに、権力に対して諫言する役職になって活躍してほしいと思っているわけだ。こんなふうに個人的に、権力を持っている宰相のところにお礼に来て、適切だと思っているのかね」
「・・・むぐぐ」
道輔慚伏而退。
道輔慚じ伏して退ぞけり。
道輔は内心でしまったと思い、頭を下げたまま退出した。
ずっと後になってから道輔はまわりの者に、回想して言った、
如馮公者、未足為賢相。然求之於今、亦未易有。
馮公の如き者は、いまだ賢相と為すに足らず。然れどもこれを今に求むるに、また有り易からず。
「馮さんか、あんな人は、よい宰相とは言えなかったな。しかし、現代にあんな人を探してみても、ちょっと見つからないね」
と。
現代にはこういう意地の悪いくそマジメな人がいなくなった、と嘆じているんです。
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明・何良俊「何氏語林」巻十三「方正」下篇より。「方正篇」は、「くそまじめエピソード集」という感覚でしょうか。
ところでこの孔道輔という人がまた偏屈な人で、
自以聖人之後、常高自標置。性剛介、急於進用。
自ら聖人の後なるを以て、常に高く自ら標置す。性は剛介にして進用に急なり。
自分が聖人(孔子)の子孫であることから、いつも自分のことを高めに見積もっていた。性格は剛直で狷介な難しい人だったが、役人として出世することに積極的であった。
或有勧其少通者、答曰、吾豈姓張姓李者耶。
あるいはその少通を勧むる者有るに、答えて曰く、「吾、あに姓張、姓李者ならんや」と。
「(出世したいのなら)もう少しあちこちに顔を出して要領よくすればどうかね」と教えてくれる人があったが、それにこたえて言うに、
「わたしは、そこらの張さんや李さんではないのです(孔氏ですよ)」
と。
聞者多笑之。
聞く者、多くこれを笑えり。
これを聴いたひとは、たいてい嘲笑した。
その後、
以事被黜、然非其罪。躁忿且甚、至某県一夕、卒於駅舎。
事を以て黜(しりぞ)けらるに、その罪に非ず。躁忿まさに甚だしく、某県に至れる一夕、駅舎に卒す。
ある事件があって官職を奪われ、流謫されることになった。しかし、彼は自分に罪があると思えなかったので、怒り騒ぐことが甚だしかった。流される途中の県の宿舎に泊まった時、夜の間に死んでしまっていた。
あまりにも憤慨しすぎたのである。
と、「儒林公議」という本に書いてあるそうです。わたしも血圧が高いのですが、怒り騒がないので大丈夫!のはず。
ちなみに「肝冷齋さんはなんと立派な読書人であろうか、今日の更新のために少なくとも三冊も読んでおられるのだからな」と賞めてくれる人もいるかも知れませんので、「まあね」と言っておきますが、実は「語林」に対する何良俊先生の自注を読んでるだけなので、実際は「語林」だけしか読んでないんです。でもバレなければ大丈夫!のはず。
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