6月18日 今日新しいお医者さんから注意される

当頭一棒(当頭の一棒)(「清通鑑」)

塩分も体重も運動も尿酸値も全部知ってます。専門家に言われたからといってびっくりしたりびびったりするおれではないぜ。

おれたちユスリカの群は、刀で斬っても棒で殴ってもまたすぐ元に戻るよ。だが、もやもやして実体はない。権力やフェイク情報に屈することはのない「真理」に似ているのでないカ?
専門家はAIよりも信頼されるよう努力してください。そんなに日本軍のこと危惧しなくても、先に〇〇国や広報会社ががんがん流してくる(もう流している)から大丈夫だと思いませんカ?

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この人は誰でしょう?

わたしは十一歳で秀才、十六歳で科挙の地方試験に合格して挙人になったが、さらに新しいことを学びたいと思っていた。そんな時、友人の陳千秋に誘われて、その人のところに行ったのである。

時余以少年科第、且于時流所推重之訓詁詞章学、頗有所知、輒沾沾自喜。

「沾」(てん、せん)は水に濡れた状態、「うるおう」と訓じますが、「沾沾」と熟すると、軽薄で表だけ取り繕っている、という意味になります。「へらへら」と訳しておきますかね。

そんなわたしに、

先生乃以大海潮音、作獅子吼、取其所挟持之数百年無用旧学、更端駁詰、悉挙而摧陥廓清之。

「海潮音」も「獅子吼」も仏教用語ですが、ほとけさまの世界中に聞こえる「でかい声」を言います。

自辰入見、及戌始退、冷水澆背、当頭一棒、一旦尽失其故塁。

惘惘然不知所従事、且驚且喜、且怨且艾、且疑且懼、与通甫連床、通夕不能寐。

「艾」(がい)は、意味が多い文字で、「よもぎ」「もぐさ」から始まって「年寄」「すぐれたひと」「美しいひと」「久しい」「養う」、のほかに「止める」「つきる」「絶える」といった動詞にも使います。なお、「刈」(がい)と通じて「かりとる」、「乂」(がい)と通じて「おさまる」の意味もあります。これは困ったが、「怨む」と対に用いられているので、(怨みが)「止む」の意と解してみました。

ここの文章は少年の興奮を写して、実にいいですね。

明日再謁、請為学方針。

先生乃教以陸王心学、而并及史学西学之梗概。

自是決然舎去旧学、自退出学海堂、而閒日請業南海之門。生平知有学自玆始。

それまでのは違ったのだ。

時に光緒十五年(1889)のことでございます。

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民国・梁啓超「三十自述」(「清通鑑」巻二五三所引)より。「わたし」は梁啓超、南海先生は康有為でした。じゃじゃーん。「清通鑑」、足かけ三年かかってついに日清戦争の終わりまで来ました。もうすぐ戊戌変法になります。あと二十年だ。滅亡まで。だが、塩分や尿酸値などを考えると、こちらの滅亡も近いかも。

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