想生出山(想生、山を出だす)(「治世余聞」)
太平の世の中には、不思議なことが起こるものです。

太平の世には変なキャラクターも次々と現れる。戦わせて最後に残ったやつを煎じて飲むと若返ることができるかも知れません。そうしたらこんな講義もできるかも。
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明・弘治三年(1490)、江西・南昌府での出来事ですが、
城隍廟殿下庭中生一石。
城隍廟の殿下の庭中に一石を生ず。
城隍神(町の守り神)の神殿の前庭に石が生まれたことがあった。
初出地四五寸、越日已長尺余、以後日日漸長。
初め地を出づること四五寸、越日すでに長尺余、以後日日漸く長ぜり。
最初は地面から12~15センチぐらい出てきて、次の日にはもう長さ30センチ以上になり、それ以降、毎日毎日だんだんと大きくなった。
一寸≒3.1センチぐらいの時代です。
既数日、已三四尺。
既に数日するに、已に三四尺なり。
数日経ったときには、もう1メートルぐらいになった。
どこまで大きくなるのであろうか。
其初出時、無人覚之是石。
其の初めて出づるの時は、人のこれを石と覚る無し。
初めて出てきたときには、誰もこれを石だとは思わなかったという。
柔軟なものだったのでしょう。
偶一人見、曰、此処想生出山矣。
たまたま一人の見て曰く、「この処に想生、山を出だしたり」と。
通りかかったひとがこう言った、「ここに「想生」(「思いのかたち」とでも訳しましょうか)が山を出しているね」と。
その人がどこの誰であったかはよくわからない。しかし、
因此語遂不復長。其生者至今存焉。
この語に因りて遂にまた長ぜず。その「生」なるもの、今に至るも存す。
この言葉があってからは、もう成長することはなくなった。この「かたち」は、今でもそこにある。
神庭に石ぐらいはあるでしょう。
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明・陳洪謨「治世余聞」上篇巻一より。著者の陳洪謨、字・宗禹は湖広・武陵のひと、高吾先生と自称す、成化十年(1474)の生まれ、弘治九年(1496)の進士、江西参政、巡撫を経て兵部左侍郎(防衛省審議官?)に至ったが、嘉靖九年(1531)時の宰相の怒りにあって、罷免されて帰郷した。以後、家にあって著作に務め、嘉靖三十四年(1555)卒すという。いくつか今に残る著作があるのですが、「治世余聞」はまだ在職中に、弘治年間に見聞したいろんな事件を記録したもの。
この「石」はおそらく粘菌だと思います。あんまり不思議ではありません。ミャクミャクも粘菌と考えればいろいろ辻褄が合う。しかし違うかも。科学のメスが入ってないのでよくわからないです。
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