耕硯自給(硯を耕して自ら給す)(「明語林」)
今日は昼間はえらい人AさんBさんと、夜はえらい人Cと会食だ。まだ何とか自分のおカネで食えてます。自己責任です。筋金入りの資本主義者として生きております。

「ばんぱくは、バクハツだ!」資本主義社会には変なキャラがいっぱいいます。
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明の王維寧は
家資巨万、性豪嗜客。
家資巨万、性豪にして客を嗜(この)む。
家は大金持ち、性格は豪放で人に奢るのが大好きであった。
毎宴、続至者常増数席。
毎宴、続至する者、常に数席を増す。
宴会を開くたびに、呼んでもいない人が次々やってきて、いつも何席か足らなくなった。
人或勧其後計、王曰、丈夫在世当用財、豈為財用。
人あるいはその後計を勧むるも、王曰く、「丈夫世に在りてはまさに財を用うるべく、あに財のために用いられんや」と。
ある人が、先のことを考えて利殖してはどうかと勧めたが、維寧は言った、
「立派な男がこの世にあるうちは、財産を使うべきであって、財産に使われてたまるものか」
と。
どんどん使って消費して、富を回してくださいよ。
と言ってたら、ついに
業尽、不能自存。
業尽き、自存能わず。
破産してしまって、自活さえできなくなってしまった。
それでも、
猶好酒不已。
なお酒を好んで已まず。
なお酒を好んで、禁酒することは無かった。
或勧其硯耕自給、曰、吾学書為口耶。
あるいはその硯耕して自給せんことを勧むるに、曰く、「吾、書を学ぶは口の為にせんや」と。
「硯で耕す」とは、「すずり」で収穫を稼ぐ、すなわち書や画でおカネをもらうことです。
あるひとが、書画で稼いで自活していくことを勧めたところ、言うに。
「わたしは、口のために書を学んだわけではないんでしてな」
と。
自ら給することを否定したのでは、資本主義の敵です。しかし王維寧は、後世に書家あるいは画家として知られる人なので、そこそこ口のためにしたんだろうと思います。
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清・呉粛公「明語林」巻八「豪爽篇」より。豪放で爽やか、というよりただの浪費家という印象ですが、明代の社会の浮沈はたいへん甚だしいので、彼ではなく社会が悪いのです。
なお、王維寧は字・古臣、江蘇常熟の人、康成先生、寒渓子と号す。詩書画を善くし、游(旅行)を好んだ。年七十にして世から隠れたと称し、
自営生壙、嘯歌其閒。
自ら生壙を営み、その間に嘯歌す。
自分で自分の墓穴を掘って、そのあたりで歌をうたって暮らしていた。
という。墓穴は冷房なくても夏もひんやり。資本主義よりこの主義の方がいいですよね。乗り換えようっと。
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