6月14日 夜も蒸し暑くなってきましたね

夏首之南(夏首の南)(「荀子」)

もうイヤです。自分が。湿気が多いのも。シビレてきます。

蒸しブタになるぐらいなら、温泉に入って茹だりたいでぶー。あるいはパン粉つけて熱湯あぶら風呂か。

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昨日、「次回に続く、じゃじゃーん!」みたいなこと言ってしまったので続きをやります。しかし、あまり大していい結論が出るわけではなく、みなさんに「なんだこんなことか」と言われるのです。イヤになってきます。

夏首(かしゅ)という地名があるんです。現代のどこか、と言われてもよくわかりません。

夏首之南有人焉、曰涓蜀梁。

地名や名前にあまり意味は無いと思いますが、辺境めいた田舎で、いかにも田舎者ぽい名前だと思ってもらえればいいと思います。

其為人也、愚而善畏、明月而宵行、俯見其影、以為伏鬼也。仰視其髪、以為立魅也。

背而走、比至其家、失気而死。豈不哀哉。

悲しいですね。

凡人之有鬼也、必以其感忽之間疑玄之時定之。此人之所以無有而有無之時也。

而己以定事、故傷於湿而痺、痺而撃鼓烹豚、則必有敝鼓喪豚之費矣。而未有兪疾之福也。

ああ。

故雖不在夏首之南、則無以異矣。

というわけでして、結論として、

凡観物有疑、中心不定、則外物不清。吾慮不清、則未可定然否也。

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「荀子」解蔽篇より。この一節、客体とこれに結び付く適当な感覚(例えば、光と視力)とが一致したとき、人間は認識行為を行う、不適当な感覚ではそのそも認識ができない、という現象学的な事実をはるか古代に確定して中国哲学の新たなページを開いたと称讃される(近人・馮友蘭など)ところです。そう言われると「試験出るの?」と訊いて「普通の試験には出ないと思います」というと「ふうん、あ、そう。あ、別に怒ってないからね」みたいなのがみなさんの一般的な反応でしょう。場合によっては時間を無駄遣いした、と怒ってくるひともいます。

わたしなどは高尚なので、涓蜀梁のようになってはいけない、自分の影と髪の毛ぐらいは知っていなければ、と思いますが、昼間は大丈夫ですが月の夜はダメかも知れません。いろいろイヤになってまいります。

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