夏首之南(夏首の南)(「荀子」)
もうイヤです。自分が。湿気が多いのも。シビレてきます。

蒸しブタになるぐらいなら、温泉に入って茹だりたいでぶー。あるいはパン粉つけて熱湯あぶら風呂か。
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昨日、「次回に続く、じゃじゃーん!」みたいなこと言ってしまったので続きをやります。しかし、あまり大していい結論が出るわけではなく、みなさんに「なんだこんなことか」と言われるのです。イヤになってきます。
夏首(かしゅ)という地名があるんです。現代のどこか、と言われてもよくわかりません。
夏首之南有人焉、曰涓蜀梁。
夏首の南に人有り、涓蜀梁(けんしょくりょう)と曰う。
地名や名前にあまり意味は無いと思いますが、辺境めいた田舎で、いかにも田舎者ぽい名前だと思ってもらえればいいと思います。
ド田舎の夏首のさらに南に、涓蜀梁というやつがいた。
其為人也、愚而善畏、明月而宵行、俯見其影、以為伏鬼也。仰視其髪、以為立魅也。
その人となりや、愚にして善く畏れ、明月に宵行し、俯きてその影を見て、以て伏鬼なりと為す。仰ぎてその髪を視て、以て立魅なりと為す。
その人の性格は、愚か者。そして臆病であった。
ある晩、月の明るい夜に歩いていたところ、俯いたら自分の影が見えた。
(妖怪が、うずくまっている!)
いや、そんなことは無いと顔を上げたら自分の髪の毛が目に入った。
(精霊がさまよっている!)、
もうたまらず、
背而走、比至其家、失気而死。豈不哀哉。
背して走り、その家に至るころおい、気を失いて死す。あに哀れまざらんや。
逃げ出して走った。その家にやっと着いたとき、意識を失ってしまって、死んだ。このことを悲しまないひとがいるだろうか。
悲しいですね。
凡人之有鬼也、必以其感忽之間疑玄之時定之。此人之所以無有而有無之時也。
およそ人の鬼有るとするや、必ずその感忽(かんこつ)の間、疑玄(ぎげん)の時を以てこれを定む。これ、人の無を以て有とし、有を以て無とする所以の時なり。
たいてい、人間が霊的なものの存在を感知するのは、必ず感情が忽せになる(「気もそぞろ」状態)や暗闇と疑う(「目がくらんだ」)時に、それが存在していると確信してしまうのである。こういう時こそ、人間が無いものを有る、有るものを無いとしてしまうその時なのだ。
而己以定事、故傷於湿而痺、痺而撃鼓烹豚、則必有敝鼓喪豚之費矣。而未有兪疾之福也。
しかるに己以て事を定む、故に湿に傷みて痺し、痺して鼓を撃ちて豚を烹るは、すなわち必ず鼓を敝(やぶ)り豚を喪うの費え有り。しかるにいまだ兪疾の福有らず。
それなのに、自分を尺度にして物事を決めてしまうのである。そういうわけで、多湿のせいで中風か何かに罹って手足がシビレてしまった人は、太鼓を叩きブタを煮て、祈祷をしてしまう。そんなこと何の役にも立たないから、太鼓を壊し、ブタを損する出費があるだけで、病気が治癒するといういいことは無いのである。
ああ。
故雖不在夏首之南、則無以異矣。
故に夏首の南に在らずといえども、すなわち以て異なる無し。
そういうことなら、夏首の南のようなド田舎には住んでなくても、それと変わることなどない(田舎者のオロカ者である)。
というわけでして、結論として、
凡観物有疑、中心不定、則外物不清。吾慮不清、則未可定然否也。
およそ物を観れども疑い有り、中心定まらざるは、外物清からざるなり。吾が慮清からざれば、すなわちいまだ然るや否やを定むべからざるなり。
だいたいですなあ、物をじっくり見ても何か違和感があって心の中できっちり納得できない、こんな時は、心の中が安定していないのである。それは外部の物をすっきりと受け止められない状態なのだ。自分の思いがすっきりしていないなら、そのことがそれでいいかダメなのか、ということ(「是非」)を決めることはできない。
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「荀子」解蔽篇より。この一節、客体とこれに結び付く適当な感覚(例えば、光と視力)とが一致したとき、人間は認識行為を行う、不適当な感覚ではそのそも認識ができない、という現象学的な事実をはるか古代に確定して中国哲学の新たなページを開いたと称讃される(近人・馮友蘭など)ところです。そう言われると「試験出るの?」と訊いて「普通の試験には出ないと思います」というと「ふうん、あ、そう。あ、別に怒ってないからね」みたいなのがみなさんの一般的な反応でしょう。場合によっては時間を無駄遣いした、と怒ってくるひともいます。
わたしなどは高尚なので、涓蜀梁のようになってはいけない、自分の影と髪の毛ぐらいは知っていなければ、と思いますが、昼間は大丈夫ですが月の夜はダメかも知れません。いろいろイヤになってまいります。
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