冥冥而行者(冥冥にして行く者)(「荀子」)
目が疎くなり、ついに耳が聴こえずらくなってきました。そして、堪えることができず、感情を爆発させるようにな・・・るまでもう一歩です。しかも来週は酷暑だというので、もうダメでしょう。

夏バテを乗り越えようという意欲さえないやつは、斬る!
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紀元前3世紀の古代のことなので、現代とは違うと思いますが、
冥冥而行者、見寝石以為伏虎也。見植林以為立人也。冥冥蔽其明也。
冥冥にして行く者は、寝石を見て以て伏虎と為す。植林を見て以て立人と為す。冥冥のその明を蔽うなり。
暗闇を行く者は、転がった石を見て、トラが蹲っている、と思うものである。植えたばかりの林の木立を見て、人が待ち伏せしている、と思うものである。暗闇がその視力を蔽っているからだ。
ほう。
酔者越百歩之溝、以為傾歩之澮也。俯而出城門、以為小之閨也。酒乱其神也。
酔える者は百歩の溝を越えるも、以て傾歩の澮(かい)と為す。俯して城門を出づるに、以て小なる閨と為す。酒の其の神を乱せばなり。
戦国時代の一歩≒1.35メートルを適用します。
酔っぱらったやつは、幅135メートルもある用水路を越える時でも、3~4メートルぐらいの溝にしか思えないものである。俯いて巨大な城門を潜る時にも、腰を屈めて通る小さな中門だと思っているものである。お酒がその感覚を乱しているからである。
なるほど。確かにお酒の力で乱されて、自分が本来の自分よりえらい人だと思ったりします。
厭目而見者、視一以為両、掩耳而聴者、聴漠漠而以為匈匈。勢乱其官也。
目を圧(おさ)えて見る者は、一を視て以て両と為し、耳を掩いて聴く者は、漠漠(ばくばく)を聴きて以て匈匈(きょうきょう)と為す。勢その官を乱せばなり。
目を押さえながら物を見る者には、一つの物が二つに見えるだろう。耳を塞いで聴こうとしている者は、なんの物音もないところに、ごうごうという騒音を聴くだろう。行動がその感覚を乱しているからである。
そろそろわかっていただきましたか。まだですか。
従山上望牛者若羊、而求羊者不下牽也。遠蔽其大也。
山上より牛を望む者は羊のごとく、而して羊を求むる者は下牽せざるなり。遠きのその大を蔽えばなり。
山の上から野原のウシを眺めたら、ヒツジのように小さく見えるだろう。しかし、ヒツジを捕まえようと思っている者は、下りて行って捕えようとはしない。遠いところが大きさがわからなくなっているだけ(ということを自覚している)からだ。
従山下望木者、十仞之木若箸、而求箸者不上折也。高蔽其長也。
山下より木を望む者は、十仞の木も箸のごとく、而して箸を求むる者は上折せず。高きのその長きを蔽えばなり。
一仞=七尺≒7✕22.5センチですから、十仞は1,575センチ、16メートル弱です。
山の下から頂上の木を眺めると、16メートルぐらいの木もお箸にしかみえないだろう。しかし、お箸を欲しがっている者は登って行って取って来ようとは思わない。高いところにあるので本当の長さがわからない(のだと知っている)からである。
もうそろそろよろしいでしょうか。まだですか。
水動而景揺、人不以定美悪、水勢玄也。
水は動きて景(かげ)揺るれば、人は以て美悪を定めず、水勢の玄なればなり。
水が安定せず、水に映ったものが揺れていると、それを鏡にしようとしてもキレイになっているかどうかわからない。水の動きがわからないからだ。
瞽者仰視而不見星、人不以定有無、用精惑也。
瞽者、仰いで視るに星を見ざれども、人は以て有無を定めず、用精惑えばなり。
目の見えない人が「見上げても星が見えない」と言ったからと言って、そのコトバから星が見えないか見えているかを確定させることはできない。使っている感覚が目的に適っていないからだ。
有人焉、以此時定物、則世之愚者也。彼愚者之定物、以疑決疑、決必不当。夫苟不当、安能無過乎。
人有りて、この時を以て物を定むるは、すなわち世の愚者なり。彼の愚者の物を定むるは、疑いを以て疑いを決するなれば、決すること必ず当たらず。それいやしくも当たらざるなり、いずくんぞ能く過ち無からんや。
ここにある人がいて、その時点での状態で物事を判断しているとしたら、それは世の中どこに行ってもバカにされるだろう。そのひとの判断は、疑わしいものを尺度にして疑わしいものを判断しているからである。判断が疑わしいのであれば、どうして結論が間違っていないといえようか(必ず間違っているであろう)。
まだまだ続くので今日はここまでにします。
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「荀子」解蔽篇より。みなさんは現代人だからAIやグーグル検索などを使うから、こんな間違いしたことはありませんよね。WAHAHAHA、むかしの人はダメだったんだなあ。
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