村居遇雨(村居して雨に遇う)(「明清小品」)
じとじとしてまいりました。

休みなく時を刻み続けて、ある日突如として動かなくなる時計じじいよ、わたしもお前に負けぬようにと頑張ってきたが、そろそろ時が満ちてきたのかもしれない。うだうだー。
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明の末ごろのことですが、わたしは
村居遇雨、来往絶人、自晨昏侍食之外、雖妻子罕見。
村居して雨に遇い、来往人を絶し、自ずから晨昏侍食の外、妻子といえどもまれに見る。
ひなびた村に住んでいて、雨が降ってきたので、やってくる人も無くなってしまったし、自分でも朝晩のメシの世話をしてくれるときのほか、女房子どもにも滅多に会わないでいる。
孤立しているのかも知れませんね。
居植修竹、間有鳥鳴、女墻低檻、疑近山岫。
居には修竹を植え、間に鳥の鳴く有り、女墻低檻、山岫(さんしゅう)の近きかと疑う。
家には、丈の高い竹を植えているのだが、ときどき鳥が来て鳴いている。ひめがきの塀も低く、山の尾根が近いようにも感じる。
昼則仇校史書、夜則屈伸一榻、謝絶肥甘、疎遠苦醴、胸中無思、或会古今得失、一頓足而已。
昼はすなわち史書を仇校し、夜はすなわち一榻を屈伸して、肥甘を謝絶し、苦醴(くれい)を疎遠にし、胸中に思い無く、或いは古今の得失に会し、一頓足するのみなり。
「仇校」は本来は、二人で(敵対者のように)向かい合って、書物の写し間違いがないかチェックすることですから、相手がいることです。しかし、誰も来ないのですから、ここでは、そのような行為を一人でしているのでしょう。「頓足」は「(快くて)足を踏み鳴らす」「(不愉快で)地団太を踏む」いずれの意味もあるのですが、ここでは「踏み鳴らす」の方だと理解しておきます。
昼間は、歴史書を見比べて正しい表記に直し、夜には折り畳み式ベッドを延ばしたり畳んだりして過ごしている。どろりとしたもの・甘いものは避け、苦い酒・あまい酒は遠ざけて、心の中には何のわだかまりもなく、時に、(歴史書を読んでいるので)古代や近年の事件のうまくやった点、しくじった点を理解できたときなど、「よっしゃ!」と足を踏み鳴らしているぐらいである。
如此数日、天亦将晴、人亦将至、我亦将出。不可以不記也。
かくの如くして数日、天また晴れんとし、人また至らんとし、我もまた出でんとせん。以て記せざるべからざるなり。
こんなふうにしているが、あと数日もしたら、空がまた晴れてくるのだろう、そうすると人も誰か来るだろうし、わたしもどこかに出かけていきたくなる。だから、今日のところはこんな気分だった、と記録しておかないわけないはいかないだろう。
因就灯書之。
因りて灯に就きてこれに書す。
そういうわけで、灯火の下、きみへの手紙に書きつけておく。
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明・宋懋澄「与范大」(范大に与う)(近人・趙伯陶「明清小品」所収)。いい手紙ですね。しかしこちらはもう体力も無くなってまいりました。やる気ないだけで無くて体力もないんにゃ。東アジアですが過労はしておりません。←でもこれでいう「儒教」は「朱子学」と言い換えないといけませんよね。
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