丰姿絶世(丰姿(ふうし)絶世なり)(「牛氏紀聞」)
日曜の夜は子どもはもう寝て夢でもみていると思いますので、大人の夢の話をのう、ひっひっひ、いたしましょうぞ。

大人は夢などみないぜ。あるのは野望と幻想だけさ。そして、ほとんどが後者であるのだ。
伊藤先生というひとがとてもいいこと言ってくれてるんですが、「私たち社会の側」と「彼ら」か・・・。
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唐のころ、洛陽の道徳里に住むある書生、
日晩行至中橋、遇貴人部従、車馬甚盛。
日晩れて行くこと中橋に至るに、貴人の部従に遇い、車馬甚だ盛んなり。
日暮れ時に城内の中橋のあたりを歩いていると、どこかの貴族の御一行に出くわした。馬車や騎馬の従者も非常に多く、なかなか橋を渡れそうにない。
(もう日暮れなのに、こんな時間にお出かけとは・・・)
と通り過ぎるのを待っていると、御一行さまの方から、
見書生、呼与語、令従後。
書生を見て、呼びてともに語り、従後せしむ。
書生を見つけたらしく、従者の一人が呼び寄せて、一行についてくるように言った。
一番後ろについてこいということかと思って、列の後ろに回ろうとすると、一番大きな車のところで止められ、これに乗れというのである。
簾を挙げて乗り込んだところ、
有貴主、年二十余、丰姿絶世、与書生語不輟。
貴主有り、年二十余にして丰姿(ふうし)絶世、書生と語りて輟めず。
「丰」(ふう、ぼう)は現代チャイナでは「豊」の簡体字にも使われますが、「豊」の繁体字である「豐」の冠にも入っているように、もともと容貌、特に豊満で美しい容姿をいう文字です。
身分の高そうな女性が乗っていた。年のころは二十歳余り、ぼいーん、と豊満な姿は世間に二人といないほどで、そのひとが書生に何かと語りかけてくるのである。
豊満な美女が好まれた唐代である。
(なんと美しい人であろうか)
と見とれながら、書生も頷いたりお世辞を言ったりして夢中であった。
因而南、去長夏門、遂至龍門、入一甲第、華堂蘭室。
因りて南し、長夏門を去り、遂に龍門に至り、一甲第の華堂蘭室なるに入る。
そのまま南に行き、長夏門を通って、とうとう洛陽街はずれの龍門のところまで来て、そこできらびやかな大部屋や蘭の香るような小部屋にあるお屋敷に入った。
―――もう少しお話しましょうね・・・
召書生賜珍饌、因与寝。
書生を召して珍饌を賜い、因りてともに寝ねたり。
女性は、書生を部屋に招いて、美味そうな食べ物を用意し、やがて一緒に寝た。
うーん、えらく簡素な表現なのでがっかりですが、もちろん、ぐうぐうと寝たのではなく、いいことをしてから寝たのだと思います。
夜過半、書生覚、見所臥処乃石窟。
夜半ばを過ぎて、書生覚め、見るに臥す処の所は、すなわち石窟なり。
夜中過ぎに書生が目を覚まして、あたりを見回すと、寝ていた場所は、石室の中であった。
「?」
前有一死婦人、身正洪漲。月光照之、腐穢不可聞。
前に一死婦人有りて、身まさに洪漲す。月光これを照らすに、腐穢聞すべからず。
目の前には、女性の死体があった。死体は(体内にガスが溜まり)ぱんぱんに膨らんでいた。月の光が射しこんでおり、死体を見ると、腐敗して崩れ、呼吸も出来ないほど臭っていた。
書生乃履危攀石、僅能出焉。
書生、すなわち危を履み石を攀じりて、わずかによく出づるのみ。
書生は、ぐらぐらの足場を踏み、石に手をかけて、なんとか石室の隙間から抜け出した。
そのあとどう歩いたのか覚えがないのだが、
暁至香山寺。為僧説之。
暁に香山寺に至る。僧のためにこれを説けり。
明け方、白楽天ゆかりの香山寺にたどりついた。そこで、僧に向かってこの話をした。
「そうですか、それはそれは」
僧は如何にもよくあることのように、驚きもせず聞いていた。その後、
僧送還家、数日而死。
僧、送りて家に還るも、数日にして死せり。
僧は人をつけて家まで送ってくれたが、書生は(すでに死者の気に侵されており)数日後には死んでしまった。
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唐・牛粛「牛氏紀聞」巻七より。むむむ、あまりエッチではなかったではなくて、ただの怪談ではないか。申し訳ありません、ならば、へへ、こちらを・・・と、大人には次のお話をするとして、みなさんはもうお休みください。どうせ新聞なんか取ってないと思うので、明日月曜日、学校か会社に行って、日曜の朝刊を読もう。
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