二物之盈虚(二物の盈虚)(「定盦全集」)
たらふく食って肥ってきたのだから、少しでも社会にお返ししたい・・・のだが、「要らん」と言っている人も多いようにも聞いております。

↓のはこんなやつだと思います。糖質ど真ん中カロリーたっぷり、しょうゆで美味いよ!
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道光年間(1821~50)はじめごろの作品ですが、現代だと思って読んでもいいですよ。
父老一青銭、餺飥如月円。
父老の一青銭は、餺飥月の如く円(まどか)なり。
「餺飥」(はくたく)とは何であろうか。
宋・欧陽修「帰田録」巻一に曰く、
餕饀不知為何物也。・・・其本湯餅。唐人謂之不托、今俗謂之餺飥矣。
餕饀(しゅんとう)は、何物たるやを知らず。・・・それ、もと湯餅(とうへい)。唐人これを不托(ふたく)と謂い、今俗にこれを餺飥と謂う。
(滑稽子(こっけいおじさん)という人の家で売っている)「餕饀」(しゅんとう)という食べ物があるというが、これは一体何ものなのか、わからなかった。・・・これは、もともとは「湯餅」(小麦をつないで、湯がいたもの。形はいろいろ考えられますが、要するに「うどん」です。)だ。唐の時代にはこれのことを「ふたく」と呼んだが、現代(宋代)ではひとびとは「はくたく」と呼んでいるね。
こういう考証ができると「おれ、すごいかも。すぐれているかも」「みんなが評価しないとは、みんなが劣っているのだ」「生きていてよかった!」という気持ちになりますね。みなさんはならないんですか。ふーん・・・。
ただし、後の文章を見ていると、清代後半のこの「餺飥」は、小麦を「丸めて」鉄板か何かの上で焼いてつくる「やきもち」「せんべい」の類のようです。「青銭」は銅銭のこと。
このおやじ(自分のこと)が子どものころは、銅銭一枚で月のように丸い焼きもちが買えた。
しかし、
児童両青銭、餺飥大如銭。
児童の両青銭は、餺飥の大いさ銭の如し。
今の子どもを見ていると、銅銭二枚を持って行って、やっと銅銭ぐらいの小さな焼きもちが買えるだけだ。
盤中餺飥貴一銭、天上明月痩一辺。
盤中の餺飥は一銭より貴く、天上の明月は一辺痩(そう)なり。
お盆の中の焼きもちは、一銭より高くなってしまった。ふと天上の月をみると、今夜の月は半分欠けた半月である。
噫、市中之餕兮天上月、
吾能料汝二物之盈虚兮、
二物照我為過客。
噫(い)、市中の餕(しゅん)、天上の月、吾よく汝ら二物の盈虚を料り、二物は我の過客たるを照らす。
ああ。市場で売っているおもちと天上の月よ。
わしはおまえたち二つが、満ちたり欠けたりするのを予想することができる。(月は毎月満ちたり欠けたり、もちはいつかはまた安くなるだろう)
おまえたちは(永遠の存在なので)、わしがいつの間にかやってきて、いつの間にか去っていく旅人のようなはかないものだとぴかぴか照らしてみているだろう。
おそらく、
月語餺飥、円者当欠。
餺飥語月、循環無極。
月は餺飥に語りて、「円なるものはまさに欠くべし」といい、
餺飥は月に語りて、「循環して極まる無し」といわん。
月は、焼きもちに向かって「丸いものはまた欠けるんだから、どんどん小さくなっていくぞ」と言い、
焼きもちは、月に向かって「満ちたり欠けたり、ぐるぐる回って終わるときはない、また大きくなっていくだろう」と言っているだろう。
大如銭、当復如月円。
大いさ銭の如きも、まさにまた月の如く円かなるべし。
(餅は、)今は銭ぐらいの大きさしなくても、いつかまた月のようにまるまるとでかくなるだろう。
呼児語、若、後五百歳俾飽而元孫。
児を呼びて語らん、若(なんじ)、後五百歳には而(なんじ)の元孫をして飽きせしめん。
子どもを呼んでこう言っておこう、
「おまえなあ、(おまえの時代はダメでも)五百年もしたら、おまえの孫の孫のさらに孫を、腹いっぱいにさせてやるからな」
と。
またいい時代が来るに違いありません。
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清・龔自珍「定盦全集」より。何十年もたらふく食べて、コメ余りの国策のために尽くしてまいりましたが、もう力足らず、あんまり食えません。もそもそとスナック菓子とかいつも食べているんで、「よく食べますね」と言われますが、むかしみたいにごはんをがんがん食うのは無理です。この題名だけ見ると「了解です!」と答えたくなってきますが、いずれにしろもう余剰米は若いもんに任せますわー。 え? 最近国策変わった?
この詩を書いた時は、鴉片戦争も太平天国の乱もまだ起こってないんです。文化大革命が終わるまで150年以上、まだまだ飢えねばならなかったのだ。みなさんの子孫はどうなるのだろうか。
この数値は、もしかしたら読者になりそうな「悩める勤め人」の人口が増えているのでは。
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