櫪馬皆鳴(櫪馬皆鳴く)(「東軒筆録」)
年をとってきますと、あちら側の情報の方が近くなってきます。

英雄にこれは持たさない方がよかったかも。
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北宋の時代のことですが、西夏の侵攻を防ぎ、遼との和平を継続させて国家に安定をもたらした魏国公・韓琦さまが、
以病乞郷郡。
病を以て郷郡を乞う。
病気になって郷里に帰りたいので、地方官にしてほしいと希望を出した。
本来、回避の制(自分の出身地の官にはなれない)があって許されないことなのですが、魏公の功績の大きさと、老齢でおそらく再起の見込みが無いことから、特別に許されて、宰相の職を持ったまま相州知事として赴任することになった。
その後、
既而疾革。
既に疾、革(あら)たまる。
もう病状が悪化して、危篤である。
という報せが都に届いていたが、
一夕、星隕於園中、櫪馬皆鳴。
一夕、星、園中に隕(お)ち、櫪馬(れきば)皆鳴けり。
この園は都・開封の近郊にあり、皇帝が狩猟するための広大な森林です。「櫪」(れき)は馬の飼い葉おけを懸ける横木のことで、「櫪馬」は、「うまやにつながれた馬」。この厩は都内の宮廷の中庭にあった。
ある晩、隕石が近郊の宮園の中に落ちた。宮中の厩の馬はみな鳴き声を上げて騒いだ。
ただならぬことが起こった兆候であろうか。ただ、近郊の宮園は人民の立ち入りを禁止していますから、隕石が落ちても人的被害は無かった。
翌日、公薨。
翌日、公、薨ず。
翌日、相州から、魏公が亡くなったという報せが届いた。
この経緯は、
上為神道碑、具述其事。
上、神道碑を為(つく)り、そのことを具述せり。
時の神宗皇帝が、みずから韓魏公の神道碑(お墓への参道に立てる経歴などを記した碑)の文章をお書きになっておられるが、その中につぶさにお書きになっておられるのである。
時に煕寧八年(1075)でございました。
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北宋・魏泰「東軒筆録」巻六より。魏泰は王安石などとほぼ同時代の人で、思想的には新法党に属したようですが、役人としては出世していません。この「東軒筆録」は、北宋の建国(960)ごろから、彼のほとんど晩年であった神宗皇帝の治世の終り(1185)までの史実や伝承を記録した随筆で、きわめて史料的価値が高いとされています。だから上述の事件も、隕石と魏公の死との間に因果関係はないであろうことを除けば、事実なのでしょう。
今朝がたはたいへん不思議な経験をしました。まだ夜明けでもないのに近所のカラスが鳴き騒ぎ、うとうとしながら(ああ、天変地異の前触れかも)と思ってい(てまた眠っ)たのですが、長嶋茂雄氏が亡くなるとは。ナベツネの亡くなった日にはそんなことは感じなかったので、長嶋さんこそが時代を代表しておられたということなのかも知れません。息子がこの人を越えるのはムリ・・・しかし所得は越えてるかも。
一番偉いひとが一番下になるような稟議書がある? そんなものがあれば、実物(マイクロフィルムでも可)を見せてほしいもんですな、わははは。
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