冠裳而吃人(冠裳して人を吃らう)(「焚書」)
現代のすぐれた民主主義国にはこんなトラのようなひとはおりません。

むかしの人たちは、金太郎あめのように、みんなこんな人たちばかりだったのだろうか。
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昔の伝奇を読んでいると、漢の宣城郡守・封卲(ほうしょう)のことが出てくる。
一日化為虎、食郡民。民呼曰封使君、即去不復来。
一日化して虎と為り、郡民を食らう。民呼びて「封使君」と曰へば、即ち去りてまた来たらず。
彼は、ある日、トラになってしまい、郡の民を食ってしまった。人民たちがトラを見つけて「封知事どの!」と呼び掛けると、トラは(一瞬立ち止まって恥ずかしそうに躊躇したあと、)すぐに去っていき、二度と人前に現れなかった。
というのである。
宣城では、人民たちがこのことを歌い継いだという。歌に曰く、
莫学封使君、生不治民死食民。
学ぶなかれ、封使君、生きては民を治めず、死しては民を食らう。
―――封知事さまの真似するな、生きてる間は民を治められず、死(んでトラに生まれ変わっ)た)後には民を食ってしまったのだ。
明のひと張禺山にこのことを謳った詩がある。
昔日封使君、化虎方食民。今日使君者、冠裳而吃人。
昔日の封使君は、虎に化してまさに民を食らわんとす。今日の使君たる者は、冠裳して人を吃す。
むかしむかし封知事さまは、トラになって人民を食おうとした。今の知事さんたる者は、冠や裳をつけて人を食っている。
二番、
昔日虎使君、呼之即慚止。今日虎使君、呼之動牙歯。
昔日の虎使君は、これを呼ぶに即ち慚じて止まる。今日の虎使君は、これを呼べば牙歯を動かす。
むかしむかしトラ知事さまは、人が呼んだら恥ずかしがって立ち止まった。現代のトラ(のような)知事さまたちは、もし呼びかけたら牙を引ん剝くことだろう。
三番、
昔時虎伏草、今日虎坐衙。大則呑人畜、小不遺魚蝦。
昔時の虎は草に伏し、今日の虎は衙に坐す。大なれば則ち人畜を呑み、小なるも魚蝦を遺さず。
むかしむかしのトラは草原に隠れていたが、現代のトラは役所に座っているようじゃ。でかいものでは人も家畜も食ってしまい、小さいものでも魚やエビも残さない。
なんでも食ってしまうんです。
あるひとが言った、
此詩太激。
この詩はなはだ激し。
「この詩は激しすぎないか」
すべての知事がトラのようであるわけではあるまい。
だが、寓山は言った、
我性然也。
我が性、然るなり。
「詩だけではない。おれの性格が、もともとそうなのだ」
楊升庵が言った、
東坡嬉笑怒罵、皆成詩。公詩無嬉笑、但有怒罵耶。
東坡は嬉笑・怒罵、みな詩と成る。公の詩には嬉笑無く、ただ怒罵有るのみなるや。
「宋の蘇東坡は、うれしい笑いも怒りの悪口も、すべて詩となった、と言われる。おまえさんの詩には、そのうち「うれしい笑い」が無くて、怒りの悪口だけがある、のだろう。
わたくし(李卓吾)も申し上げたい、
果哉怒罵成詩也。升庵此言、甚於怒罵。
果たせるかな、怒罵の詩と成るや。升庵のこの言、怒罵よりも甚だし。
とうとう、怒りの悪口も詩と成ったのだ。楊升庵のこの言は、(よく読むと)怒りの悪口よりもっとひどいこと言っている(ような気がしてきた)。
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明・李卓吾「焚書」巻五「読史篇」より「封使君」。この本、やっぱりおもしろいですよね。爆発的に売れてたので、禁書になってもあちこちに残ったといわれるとおりです。
現代のわが国にはトラは動物園にしかいませんから、こんな悪い政治家や役人も動物園にしかいません。ああよかった。特別の「動物園」なので、修学旅行などで見に行ってみましょう。
動物園に入っていないクマやタヌキやハクビシンなどが危険です。もちろん何ものかの比喩ですよ。うっしっし。いろんな智慧が試された中で今の形を選んでいるので、ちゃんと使えばいいと思うのですが・・・。
1922年には大正だ。
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