八方各異気(八方おのおの気を異にす)(「曹子建集」)
暑くなってきたので、頭も痒いし体力も無くなってきました。今年は冷夏だと聞くが日本の夏は体力奪われますね。気力は年中無い。

梅雨時は、粘液でさらに気力と体力を奪われるデンデン。
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地方によっては、寒いところも暑いところもあるわけです。魏の陳王・曹植(字・子建)も言うように、
八方各異気、千里殊風雨。
八方おのおの気を異にし、千里風雨を殊にす。
「方」は単なる「方向」ではなくて「辺境」の意です。
(中央から東西南北+東南・西南・東北・西北の)八方向の地方では、それぞれ気象が違うものである。430キロ(当時の一里≒430メートル強で計算)も離れていれば、風や雨の天候も変わってくる。
ところがこういう中央から遠いところにも人は生きているのだ。
劇哉辺海民、寄身於草野。
劇なるかな、辺海の民、身を草野に寄す。
「劇」は劇薬の「劇」ですが、「激しい」だけでなく「苦しい」の意味もあります。
なんと苦しいのか、海辺の民は。草の生えた原野で暮らしているのだ。
そして、
妻子象禽獣、行止依林阻。
妻子は禽獣に象(に)、行止は林阻に依る。
「林阻」の「阻」は「険しい」の意。
女房子供は「ふんがー!」と、ドウブツみたいなやつらなのだ。行くときもじっとしている時も、森林の中や険しい土地にいるのだ。
ドウブツみたいな子どもはたくさんいますよね。言うことなど聴かないし、わいわい走り回るのだ。だが最近はみんな大事にしています。女房は・・・。
柴門何蕭条、狐兎翔我宇。
柴門は何ぞ蕭条たる、狐兎は我が宇を翔(か)く。
柴を結んで作った門はなんとさびしげなのであろうか。キツネやウサギがおれの家の中を駆け回っている。
女房子供がドウブツなのだから、これぐらいはいいのでは。
この詩はこれでおしまい。もっといろいろ違う地方のことも書くのかと思いましたが、ここだけでした。
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三国魏・曹植「泰山梁甫吟」(「曹子建集」より)。泰山も梁甫も山東の地名なので、その一方向だけの歌になったみたいです。古代では、泰山も梁甫も死者が行く世界(「黄泉の国」ですね)と考えられていたらしく、本来の「泰山梁甫吟」は死者を送る挽歌なんだそうですが、曹植はこれを辺境の苦しい生活の詩に書き換え、「詩経」の伝統に沿った社会詩の創作を試みたのだと評価されます。
日本の各地はこれから過疎の黄泉の国になってしまうのであろうか。国家総動員で、今だけ、カネだけ、自分だけの精神で取り組んできたからしようがないか・・・。
「妻子」が「禽獣」のようである、というのは、苦しい生活だと思いますが、逆に、ネコが家族、小鳥が友だち、世界だったらすばらしいはず。

にゃんげんはおれたちの家族ではなくコブンにゃぞ。(死んでいるのではありません。しりたたきでごろごろしている)
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