5月16日(金)・・・那覇からフェリーで一時間の渡嘉敷島へ行きます。ここは二つの集落(東側にある渡嘉敷と西側の阿波連)から成り、特に渡嘉敷は沖縄戦で米軍と赤松隊の二重占領みたいな状態になり、多くの村民が日米両軍に悩まされて亡くなっています。今では「慶良間ブルーの海」で世界中から潜りファンが集まってきます。平日ですが、行きも帰りもフェリーは満員、ほとんどがホワイト、ブラック、イエローのインバウンドの人たちです。

案内はわたしが聴いてもわかるようなカタコト英語で役場の人?がバスに乗せてました。わたしは北山の方に歩きですが。
〇白玉の塔 ・・・昭和26年に集団自決地に建てられたが、米軍が基地に利用したため村に近いところに移設した。(写真はアップせず)
〇赤松隊部隊壕 ・・・12の壕の前まで入れます。渡嘉敷は赤松隊長のもと、他島とは違った特異な島嶼戦が行われており、米軍の上陸(3月27日)に絶望した村民の3月28日の集団自決(4月2日にはロスアンジェルスタイムスで報道)があり、また、捕虜となった島民や、伊江島島民の収容所となったため伊江島島民が、数次にわたって降伏勧告に来たのを利敵行為としてことごとく処刑、8月16日に天皇陛下の詔勅をもたらした島民も処刑、各地で即決裁判で処刑されたことはあったと思うのだが、ここは処刑に斬首を用いた点が特殊です。公的記録はないが、約10人の朝鮮人労務者が処刑及び焼死している。18日に部隊降伏して戦闘状態は終了した。

この小川沿いに多くの壕が掘られ、そのうち12が復元(入口近くだけですが)さています。写真は撮らないほうがいい、と那覇の友人に忠告されたので撮りませんでした。一度は行くべきところですね。
〇烽火台 ・・・ 唐船見つけると烽火をあげて那覇に知らせたそうです。海から直接海霧が上がってくる。

この先は海なんですが。
〇集団自決地 ・・・ 三百人以上死んでいるそうです。敷地に入る前の入り口(記念碑よりずっとこっち)で一枚撮りましたが、それもどうもまずそうな写真なので載せませんよ。自決地には入れます。入ってみるといいと思います。できれば一人で。
〇東展望台 ・・・ こちらの方向、那覇方面。

まみやかまぼこを買ってきたので食ってます。これはカロリー高いぞ。ここも海から霧が上がってきてますね。
〇西展望台 ・・・ 慶良間瀬戸方面。

慶良間国定公園で一番、というよりほんとに日本屈指の眺望です。やっぱり来てみるんもんですね。
〇大谷辻 ・・・ うふたにちじ。島の東側の港・渡嘉敷と西側の阿波連の境になるんだと思います。英雄・鬼慶良間(うにげらま)と阿波連弁慶の争いで、木橋を何度も壊した阿波連弁慶だったが、鬼慶良間のかけた石橋を踏み壊すことはできず、足を痛めて引き上げたそうだ。

右側は慶良間節の顕彰碑で、左は鬼慶良間の伝説を記す。
〇慶良間節でも歌われているとおり、このあたりは水田なのですが、もう耕作放棄されて何年かになるようだ。

放棄したやつが悪い、えっへん。と農水省とJAは笑っているかも知れませんよ。
〇渡嘉敷神社 ・・・ 王府時代に船乗りが創建。当時から大和式だそうです。裏山は「久米頂」(くめちじ)、もとは聖地なのでしょう。

これはおそらくいい陽光だと思うので写真掲載許可です。もちろん自分で自分に許可しているだけです。〇霊写真とか思わないのですが、やめた方がいいのは時々撮れますよね?みなさんもですよね?
〇根元の石垣 ・・・ 交易で力をつけた人の家だそうです。

中にも入れますが、現住しているのかどうかわからないので写真は撮りませんでした。
〇渡嘉敷歴史民俗資料館 ・・・ 慶良間鰹節(げらまかつお)の工場の模型あり。赤い煙突だけ残っているそうです。見逃した。鬼才の祠や村内のウタキも見逃した。

午前やっていなくて15時から開くというシステムなので、重要な情報を事前に得られなかったのである。また阿波連調査と合わせて来ないといけません。
〇渡嘉敷諸島 ・・・ 那覇との間にいくつかの島があります。

右端から前島、中島、果(はて)の島。前島の「まえ」は那覇の前にあるからなのかと思っていたが、渡嘉敷の港から出るとこの並びで見えるから「まえ」「なか」「はて」なんですね。
那覇(首里)に着きました。

「どこをほっつき歩いていたんニャ! 早くしりたたけ」とおやぶんに叱られる。尿道結石になったそうですが、いつもにもまして威張っていました。
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