黙黙静植(黙黙たる静植)(「石田集」)
回遊魚型人間ではないのですが、イソギンチャク系なので、ノルマをこなすのに大変で忙しかったんです。今日はノルマをこなすのを止めて、風や雲に注意を向けてみました。ただし観タマは解除されません。( ;∀;)

「お前も妖怪なら大自然の声に耳を傾けろよ」
「おれたちは妖怪ではなくて精霊だけどな」
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雨がぽつぽつと降ってきました。朝には止むみたいですが、この数日こんな天気が続いてますね。
夫蕉者、葉大而虚、承雨有声。雨之疾徐、疏密、響応不忒。
夫(それ)、蕉なるものは、葉大にして虚、雨を承けて声有り。雨の疾徐、疏密と、響応して忒(たが)わず。
さて、芭蕉という植物があります。その葉は大きく、そしてのっぺりして、そこに雨が当たると音を出す。その音は、雨の足早か、ゆっくりか、ばらついているか、土砂降りか、その降り方に対応して響き、間違うことはありません。
然蕉曷嘗有声、声仮雨也。雨不集、則蕉亦黙黙静植。蕉不虚、雨亦不能使為之声。蕉雨固相能也。
然れども蕉曷(なん)ぞ嘗(つね)に声有らん、声は雨に仮るなり。雨集まらざれば、すなわち蕉はまた黙黙として静植なり。蕉虚ならざれば、雨またこれをして声を為さしむ能わず。蕉と雨はもとより相能くするなり。
とはいえ、芭蕉はどうしていつも音を鳴らしていることができようか。その音は雨のおかげで鳴るのである。雨が降ってこなければ、芭蕉はいつも黙りこくった静かな植物なのだ。その一方で、芭蕉がそういうふうに自分からは何もしないから、雨の方は音を出させることができるのである。結論、芭蕉と雨は互いに協力しあっている。
蕉静也、雨動也、動静戛摩而成声、声与耳又相能相入也。
蕉は静なり、雨は動なり。動と静、戛(かつ)し摩(ま)して声を成し、声と耳もまた相能くして相入るなり。
芭蕉は静かだ。雨は動きがある。動くものと静かなものとが、ぶつかりあい、こすれあって音を出す。音と耳も、また互いに協力して聞こえることになるのである。
音を聞いてみましょう。
迨若匝匝臿臿、剥剥滂滂、索索漸漸、床床浪浪、如僧諷堂、如漁鳴榔、如珠傾、如馬驤、得而象之、又属聴者之妙矣。
匝匝(そうそう)臿臿(そうそう)、剥剥(さくさく)滂滂(ぼうぼう)、索索(さくさく)漸漸(ぜんせん)、床床(しょうしょう)浪浪(ろうろう)たるが若きに及び、僧の堂に諷するごとく、漁の榔を鳴らすが如く、珠の傾くが如く、馬の驤(あ)がるが如く、得てこれを象るは、また聴く者の妙に属せり。
オノマトペはひらがなは芭蕉の葉の音、カタカナは雨の音だと考えてください。
そうそう、シャッシャッ、さわさわ、ベチャベチャ、さくさく、ザアザア、しょうしょう、ジャブジャブという音が聞こえてくると、それは、僧侶がお堂で何かを唱えているようではないか、漁師がカイを漕いでいるのではないか、真珠がこすれあっているのではないか、馬がとひはねているのではないか。・・・いろんなことを想像するのは、耳で聴く者の方の能力に属することだ。
虚でなければ音は鳴らないのである。聴く者も虚でなければ、それを受け止めることはできない。
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明・沈石田「石田集」より「聴蕉記」(蕉を聴くの記)。石田先生・沈周は明前期の江蘇蘇州のひと、一生隠棲して仕えず、画師として有名だが、その文章も高く評価されておるんじゃ。
雨と芭蕉は互いに協力して「音」を出すのですが、官民で智慧を絞れば何が出るんでしょうか。変なモノが出てくるのでは。
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