六十為神仙(六十にして神仙と為る)(「幽夢影」)
憲法は八十年も経っているので、神仙となってしまっているのかも。

三十代は機関車ごとく、四十にしてネコの手扱い、というやつもいるはずにゃ。
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心斎先生が言った、
十歳為神童、二十三十為才子、四十五十為名臣、六十為神仙、可謂全人矣。
十歳にして神童たり、二十三十才子たり、四十五十名臣たり、六十にして神仙と為らば、全人と謂うべし。
十歳で神童となり、二十~三十歳では詩人として女性にも大人気、四十~五十台までは朝廷の名声ある臣、六十歳になると神仙として天界に昇る―――これなら、完全な人間というべきであろう。
ただちに意見が出ました。
江含徴の意見:此却不可知。蓋神童原有仙骨故也。唯恐中間做名臣時、堕落名利場中耳。
此れ却って知るべからず。けだし、神童は原(もと)仙骨有るが故なり。ただ恐るらくは、中間の名臣を做(な)すの時、名利場中に堕落せんのみ。
これはなかなかそう言い切れるものでもありますまい。もともと「神童」には、将来仙人になる性質があるはずですが、仙人になる前に朝廷で名声を受けるとなると、その間に名誉や利益のために働く人間に堕落してしま恐れがありますから。(途中を飛ばして、神童→神仙が完全な人間では?)
楊聖藻:人誰不想。難得有此全福。
人誰か想わざらん。この全福有るを得難きなり。
誰だってそうありたいと思うでしょうが、こんな「完全な幸運」を得ることはできません。(いずれも自分の努力でなれるものではありますまい)
張竹坡:神童、才子由于己、可能也。名臣由于君、神仙由于天、不可必也。
神童、才子は己に由り、能くすべきなり。名臣は君に由り、神仙は天に由る、必すべからざるなり。
神童と才子は、自分の努力で何とかできるかも知れません。しかし、名臣になるには主君が選んで信頼してくれなければなりませんし、神仙になるには天が選んでくれなければなりません。自分ではどうしようもない。(特に、主君の良し悪し、のところを言っておきたい)
最後に
顧天石:六十神仙、似乎太早。
六十にして神仙たるは、はなはだ早きに似んや。
六十歳でもう神仙になってしまうのは、早すぎるのではないでしょうかな。(まだ現世の楽しみもありましょう。ひっひっひ)
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清・張心斎「幽夢影」より。みなさんのご意見如何に。わたくしもそろそろ神仙になろうとしておりますが、やはり六十では早いような気がします。あと五年ぐらいガマンしなされ。
これもおすすめなんですが、やはりこちらが焦眉の問題か。眉が焦げるとやばいですよね。
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