5月2日 キリ番取れなくても怒ってはいけません

出牛背上(牛背の上に出づ)(「世説新語」)

「9と1が取れてなぜ0が取れないのだ!」と、秋田のSさん頭に来たかも知れませんが(ウソですよ)、どんなことがあっても、怒ってはいけないんです。しかし、怒らないようにしててもムリしてそうしている、とバレてはいけないんです。いつもニコニコ、秋田のSさん。いつもニコニコ肝冷庵。うーん、難しいですね。

おいらは、いつもニコニコ雷坊主だ。ニコニコしてないと誰を狙っているかバレてしまうから、いつもニコニコして、きみを狙ってるかもよ。うっしっし。

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三世紀末、西晋の終りごろのことですが、当時、清談の名手といわれてたいへん人気のあった貴公子・王衍は、

嘗属族人事、経時未行。

遇於一処飲燕、因語之曰近属尊事、那得不行。

言い方にむっと来たのでしょう、

「なんじゃと!」

族人大怒、便挙樏擲其面。

「樏」(るい)は木製の「重箱」です。

料理を頭からかぶった。

親戚の人は怒って行ってしまいました。

王衍は、

都無言、盥洗畢、牽王導臂、与共載去。

王導はなすがままに乗せられた。

在車中照鏡、語導曰、汝看我眼光、迺出牛背上。

と。王導は言いなりになって頷いていたということである。

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南朝宋・劉義慶「世説新語」雅量第六より。王衍はその後、いろんな人から期待され、西晋の末に八王の乱の中で丞相となりますが、匈奴族に捕らえられ、「あなたにも亡国の一因があろう」と指摘されて、反論できずに殺されてしまいます。一方、王導の方は建康に逃れ、同様に逃れてきた皇族の司馬睿(元帝)を助けて、亡命貴族、軍閥、江南の地元の貴族たち、さらに南海からやってきた仏教徒らをも取り込んで、調整型の名宰相として、ついに東晋の建国の功臣となった。このお話、まことに「雅量」があったのは誰であったか、うまく出来ているような、出来過ぎているような。

久しぶりで日録が「投稿」できました。普段は一枚目は「固定ページ」にしかならなくて、二枚目から「投稿」できたのに。いったいどういう仕組みなのであろうか。むかむかむか、頭きたー・・・となりませんように。

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