多岐亡羊(多岐にして羊を亡う)(「列子」)の続き
あんまり寒いのでもう東京になんかいるのイヤだ! と、いまは音信不通になっております。

けしからん、結局はずっと寝ているでメー
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昨日は楊先生が「それは・・・」と言い出したところまで、でした。
楊先生はこのように言ったんです。
人有浜河而居者、習於水、勇於泅、操舟鬻渡、利供百口。
人の浜河に居る者有り、水に習い、泅(しゅう)に勇、舟を操りて渡を鬻(ひさ)ぎ、利して百口に供す。
―――川のほとりに、一人の男がおった。水に慣れ、泅(およ)ぎに自信があって、舟を操縦して人貨を渡すことを商売にして、百人の一族を養っていたそうじゃ。
裹糧就学者成徒。而溺死者幾半。本学泅、不学溺、而利害如此。若以為孰是孰非。
糧を裹(つつ)みて就学する者、徒を成す。しかるに溺死する者ほとんど半ばなり。もと泅(およぎ)を学ばんとし、溺を学ばず、而して利害かくの如し。若(なんじ)、以て孰れをか是、孰れをか非と為すや。
―――「これは儲かるぜ」と、食糧を袋に入れてこの人のところに(操船や泳ぎについて)学びに来る者は行列を為すほどであった。しかし、たいへん危険なことなので、そのうちの半分ぐらい溺れて死んでしまったのじゃ。もともと泳ぎを学びに来て、溺れを学びに来たのではないのに、どうして利益を受けるやつと害悪を受けるやつと、こんなに差がついてしまったのだろうか。おまえさんは、どちらが正しく、どちらが間違っている、と言えるか。
質問に対して質問で返すとは怪しからん―――ですが、要するに、学ぶ方がどう受け取るかは、ひとによって違う。兄弟が同じ先生から教えられても違うのだ。もちろん、学ぶ者の問題意識や能力の違いによることもあるだろうが、なぜそんな結果になるか予想もつかない場合も多い。ところが、その結果によって、死んだり富を得たりの差が生ずる。人間にコントロールできないものがあるのだ・・・。
「むむむ・・・」
心都子黙然而出。
心都子、黙然として出づ。
心都先生は、黙りこくって楊先生の前を辞した。
孟孫陽は言った、
何吾子問之迂、夫子答之僻。吾惑愈甚。
何ぞ吾が子のこれに問うや迂、夫子のこれに答うるや僻なる。吾が惑い、いよいよ甚だし。
「なんとまあ、先生の質問の遠回しなこと、そして大先生の答えのぴんぼけで的を射てないことでしょうかなあ。わたしの疑問はさらに深まりましたよ」
これはイヤミです。
心都先生は言った、
大道以多岐亡羊、学者以多方喪生。学非本不同、非本不一、而末異若是。唯帰同反一、為亡得喪。
大道は多岐を以て羊を亡い、学者は多方を以て生を喪う。学ぶはもとより同じからざるに非ず、もとより一ならざるに非ず、しかるに末異はかくのごとし。ただ同じきに帰し一に反れば、得喪亡しと為す。
―――大きな道はどんどん枝分かれするから、逃げて行ったヒツジを見つけることはできない。学ぶ者は方法が多すぎて本質的なことを忘れてしまう。学問の対象や方法は、もとから違っていたわけでもないし、もとから別だったわけでもない。それなのに、結末はこんなに違ってしまうのだ。ただ同じに戻り一つに反るなら、得した者も失くした者もなく、みな同じ状態に戻れるのだが。
それを先生は言おうとしているのではないだろうか。それなのに、
子長先生之門、習先生之道、而不達先生之況也。哀哉。
子は先生の門に長く、先生の道に習い、しかるに先生の況に達せず。哀しいかな。
―――だいたいおまえは、楊先生の門下に長く従い、先生のやり方に慣れているはずなのに、先生の視野には達していないのだ。おまえさんは哀れだなあ。
最後は逆切れしてきました。仲間割れだ。
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「列子」説符篇より。最後の心都先生と孟孫陽の会話だけ、余計な気がします。この会話のせいで結局何が言いたいのか、よくわからなくなってしまった感が・・・。だが、これが「列子」の特徴であり、魅力でもあります。言いたいことなんか無いんですよ。途中でイヤになってきて、
いや、はあ、だが、・・・むにゃむにゃ。
としゃべるのもイヤになってくる、という感じです。どうぞその感じを味わってください。
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