多岐亡羊(多岐にして羊を亡う)(「列子」)
明日の朝から、今日よりも寒いらしいですよ。みんなどうしてるかなあ。

クリスマスのころからずっと寝ているでメー。睡眠について長時間労働しているでメー。
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戦国の時代のことですが、
楊子之隣人亡羊、既率其党、又請楊子之豎追之。
楊子の隣人、羊を亡い、既にその党を率いて、また楊子の豎(じゅ)のこれを追わんことを請う。
楊先生(おそらく楊朱であろう)の隣の人のヒツジが一頭いなくなってしまった。そこで自分の従者や下人を率いて捜索しているのだが、その上に、楊先生のところの童子たちにも捜索に加わってほしい、と頼みに来た。
童子たちは「おーけー」「行きまちょう」「うっしっし」と元気だったが、楊先生は言った、
嘻、亡一羊、何追者之衆。
嘻(き)、一羊を亡うに、何ぞ追う者の衆(おお)き。
「ああ、羊一頭がいなくなったといって、追いかける者がずいぶん多く必要なんですな」
隣人は言った、
多岐路。
岐路多し。
「このへんは分かれ道が多いんですよ。それで人手が要ります」
「そうですか」
と童子たちを手伝いに行かせた。
既反、問獲羊乎。
既に反り、羊を獲たるかを問う。
やがて戻ってきたので、先生は(隣人に)ヒツジを見つけられたかどうか、と訊いた。
亡之矣。
これを亡えり。
「いや、見つけられませんでした」
奚亡之。
奚(なん)ぞこれを亡うや。
「あれだけの人数を出したのに、どうして見つけられなかったんでしょうね」
岐路之中、又有岐焉。吾不知所之。所以反也。
岐路の中、また岐有るなり。吾之(ゆ)くところを知らず。反る所以なり。
「分かれ道を行くとまた分かれが有るんです。どう進んで行ったかわからない。ひきあげて来たのはそのためです」
それを聞いて楊先生は、
戚然変容、不言者移時、不笑者竟日。
戚然として容を変じ、言わざること移時、笑わざること竟日なり。
突然元気を失って顔つきを変え、しばらく何も言わなくなった。そしてその日一日中笑わなかった。
門人怪之、請曰、羊賤畜、又非夫子之有、而損言笑者何哉。
門人これを怪しみ、請いて曰く「羊は賤畜なり、また夫子の有にも非ず、言笑を損するは何ぞや」と。
弟子たちは不思議がって、先生に答えを要求した。
「ヒツジはそんなに貴重な家畜でもありませんし、なにより先生のものでもありません。それなのに、ヒツジがいなくなって、発言や笑顔が減ったのは何故ですか」
楊子不答。
楊子答えず。
楊先生は答えなかった。
「むむ」
門人不獲所命。
門人命ずるところを獲ず。
弟子たちは、要求したことに答えてもらえなかったのだった。
さて、弟子の中に孟孫陽というのがいて、これが楊先生の友人の心都先生に「楊先生が答えてくれないんですよ」と相談した。
「ふむ。わしから訊いてみよう」
心都子他日与孟孫陽偕入而問。
心都子、他日、孟孫陽とともに入りて問う。
心都先生は、別の日、孟孫陽といっしょに楊先生の部屋にうかがって、質問した。
質問の内容は、以下のとおりであった。
昔有昆弟三人、游斉魯之間、同師而学、進仁義之道而帰。
昔、昆弟三人有りて、斉魯の間に游び、師を同じくして学んで、仁義の道に進みて帰る。
―――むかしのことですが、三人兄弟がおりまして、斉と魯の国境あたりの先進文化地帯に留学して、三人とも同じ先生のもとで、仁義の道(すなわち儒学)を学んで帰ってきたんだそうでございます。
この時、三人に、親父が質問した。
「仁義の道、というのはつまりはどういうものなんだ?」
伯曰、仁義使愛身而後名。
伯曰く、仁義は身を愛(お)しみて名を後にせしむ。
長兄は言った、「仁義の教えは、自分の命を大切にし、名声など後回しにさせるものでした」。
仲曰、仁義使我殺身以成名。
仲曰く、仁義は我をして身を殺して以て名を成さしむ。
次兄は言った、「仁義の教えは、自分の命を棄てても名声を得られるようにさせるものでした」。
叔曰、仁義使我身名並全。
叔曰く、仁義は我をして身・名並びに全うせしむ。
末弟は言った、「仁義の教えは、自分の命と名声、どちらも完全に保つようにさせるものでした」。
さて、楊先生、
彼三術相反、而同出於儒、孰是孰非耶。
彼(か)の三術は相反す、しかるに同じく儒から出づ、孰れか是にして孰れか非なるか。
「この三人の学んだ内容はそれぞれ相反関係にあります。しかし、どれも同じ儒学者から学んだという。どれが正しく、どれが間違っているのでしょうか」
楊先生は言った、「それは・・・」
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「列子」説符篇より。続きは明日。この章(特に前半)が、
多岐亡羊
多岐にして羊を亡う。
分かれ道が多くてヒツジがどこにいったか分からなくなってしまった
の典故です。文字どおりにヒツジがいなくなって困る人もいると思いますが、一般には、
〇学問をしていくと、少しづつの違いでいろんな説があって、どれが正しいか考えあぐねているうちにヒツジ(真理)がどこに行ったのかわからなくなってしまう。
という意味に使われます。
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