唯有蒲葵扇(ただ蒲葵扇有るのみ)(「智嚢」)
暖房無いので部屋の中でもぶかぶかに厚着しているのですが、居眠りすると寒いですね。
服は冬はぶかぶか、夏はハダカでいいのであって、流行を追うということは、誰かに操られているということだと考えねばならない。

おれたちいのししには、服なんか要らないのでぶー。
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東晋の四世紀末ころのことですが、
謝安之郷人有罷官還者詣安。
謝安の郷人、官を罷めて還る者有りて安に詣す。
(後に大宰相となる)謝安の同郷のひとが、役所を辞めて郷里に帰ることになって、謝安のところに挨拶に来た。
安問其帰資。答曰、唯有蒲葵扇五万。
安、その帰資を問う。答えて曰く、ただ蒲葵扇の五万有るのみ、と。
謝安は「くにに帰って、何かやるためのカネはあるのか?」と訊いた。その人答えて言う、「ビロウ扇が五万ほどありますので、これを元手にしようかと・・・」。
「ふーん・・・」
安乃取一中者捉之、士庶競市、価遂数倍。
安すなわち一の中者を取りてこれを捉するに、士庶競いて市(か)い、価ついに数倍す。
謝安はその中から中ぐらいの大きさのを一つ取り上げ、それを手にして使った。
すると、身分のある者も庶民たちも、「謝安さまが使っている!」とみな争ってビロウ扇を買い始めたので、あっという間に値段が数倍に跳ね上がった。
その人はこれを売り払って、帰郷することができたのである。
ある人、謝安の機知をほめたたえたところ、謝安は言った、
此即王丞相之故智。
これ、王丞相の故智に即するなり。
「わたしが考えたのではなくて、王丞相さまのむかしの知恵そのままですよ」
東晋初期の丞相で、建国の功臣である王導は、西晋末期の八王の乱を避け、洛陽から長江を越えて建業(今の南京)に逃れてきた。そこで同じく華北を逃れてきた東晋の元帝とともに新しい国造りを開始した(建武元年(317))のだが、資金が無い。
「困ったな」「困りましたね」
建業の官庫を開いてみたが、
帑蔵空竭、惟有練数千端。
帑蔵空竭にして、ただ練の数千端あるのみ。
金蔵はからっぽになっていた(もちろん貴重な金銀は、西晋の亡国のどさくさ紛れに誰かが持ち出したのだ)。残されているのは、練り絹が数千端だけである。
練り絹は糸を煮込んで光沢を出してから織り上げた絹で、高級品ですが、嵩張るので持ち逃げされていなかったのでしょう。一端は二十尺、当時の一尺≒24センチぐらい、ですから、一端は5メートル弱。簡単な服が一着できるぐらい。
「これはありがたい」「どうするつもりだ?」
丞相与朝賢共制練布単衣。一時士人翕然競服、練遂踊貴。
丞相、朝賢とともに練布の単衣を制す。一時の士人、翕然として競いて服し、練ついに踊貴せり。
「翕」(きゅう)は「鳥がいっせいに飛び立つ様子」です。みんなで押し寄せるように行動することを言います。
王丞相は、その他の亡命貴族たちとともに、練り絹で単衣(ひとえ。あまり布の量を要さない衣服)を作って着用した。中原の先進地帯から来たひとたちが着ている服なので、当時の河南の身分のある者、ただの一般人らは「かっこいい!」と押し寄せるように競ってその服を着たので、練り絹の値段が一気に騰がった。
乃令主者買之、毎端至一金。
すなわち、主者に令してこれを買わしめるに、毎端一金に至れり。
そこで、御用商人に倉庫の練り絹を一括して買わせたところ、引き取り金額は一端一金にもなった。
一金がいくらだと言われると困るのですが、十万円ぐらいと考えて、数千端で数十億円です。これぐらいで国が出来る、遠いむかしのことでございました。
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明・馮夢龍「智嚢」繆数巻十四より。明の大文豪・馮夢龍が古今の知恵者たちの故事や民間のとんち話などを集めた「ちえぶくろ」です。あらゆる知恵が詰まっているので、これさえ読んでおけばどんな状況にも対処できるはず・・・。
現在、我が国の財政は危機状況だそうです。だが、誰か知恵者が解決してくれるに違いありません。ああよかった。もし解決できる知恵者がいなかったらどうするか? 心配ありません・・・よね?
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