雖無作可耳(無作といえども可なるのみ)
新しい年の初めなので、今年はこんなことするぞー、といろいろ抱負はあると思いますが、何もしなくても、いや、しない方がいいこともあるようなんです。

出る竹は伐られるカモ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明初、江西・廬陵のひと李禎、字・昌祺は、永楽二年(1404)の進士、官僚としては河南の布政使(州ごとに置かれた三司使の一つで、行政を掌る(あとの二使は軍事と司法))となり、果断な干害対策などで名を成した人ですが、正統四年(1439)致仕、景泰三年(1452)に亡くなりました。
為人耿介廉潔、自始仕至帰老、始終一致。人頗以不得柄用惜之。
人となり耿介にして廉潔、始仕より帰老に至るまで始終一致す。人すこぶる柄用を得ざるを以てこれを惜しむ。
性格はこちこちに堅くて清廉潔白、始めて官職についてから引退して郷里に帰るまで、その点は始めから終わりまで変わらなかった。当時のひとびとは、彼が中央で重要な職に就いて活躍できなかったことを、たいへん惜しんだという。
彼が自分の画像に入れた賛があります。
貌雖醜而心厳、身雖進而意止。忠孝禀乎父師、学問存乎操履。不労朋友賛詞、自有帝王恩旨。
貌は醜しといえども心は厳なり、身は進むといえども意は止まる。忠孝は父師に禀(う)け、学問は操履に存せり。朋友の賛詞を労せず、自ずから帝王の恩旨有りき。
姿かたちはみにくいが、心は厳格。
身分はそこそこ出世しても、考えは変わらない。
忠義と孝心はおやじと師匠に教えてもらった。
学問は、何かを手にとり、足で歩く、(その日常の中で)学んできた。
友人たちよ、わたしを賞賛することばは要らない。
誰に誉められなくても、皇帝のありがたい御恩はいただいている。
これを読むと、
蓋亦有為之言也。
けだし、また有為の言ならん。
やはり何か大きな仕事の期待される人物であったことが推察されるのである。
そういう人物なのですが、彼が亡くなった景泰年間(1450~56)に、韓雍というひとが
以故老進列先賢祠中、禎独不得与。
故老を先賢祠中に進列せんことを以てするに、禎、独り与かるを得ず。
亡くなった老賢者たちを宮中の「先賢祠」という神社に並べて祀ろうと言い出した時に、李禎も推薦を受けたのだが、結局彼だけが候補から外れてしまった。
以嘗作剪灯余話。
嘗て「剪灯余話」を作るを以てなり。
生前に、怪異小説集「剪灯余話」を書いたことが咎められたのである。
みなさんは江戸怪談「牡丹灯篭」※などの原作となった瞿佑の「剪灯新話」はご存じかと思いますが、これを真似た続作中で最も優れた作品といわれるのが李禎の「剪灯余話」です。「新話」同様、日本に輸入されてベストセラーになっています。いま、国立公文書館の内閣文庫にも所蔵されるという。

※は、わたしたちが主役なのよ。おほほほほほ・・・・・
こんなおどろおどろしい怪異小説を書いているやつは、宮中に祀るわけにはいかん、ということだったようです。
禎他為詩文尚多、其余話誠謬、而所謂至正妓人行、亦太襲前人。雖無作可耳。
禎、他に詩文を為(つく)ることなお多きも、その「余話」は誠に謬(あやま)り、而していわゆる「至正妓人行」は、またはなはだ前人を襲えり。無作といえども可なるのみ。
「至正」は元末の年号(1341~70)、「妓人行」は妓女たちについてうたった「うた」。「吉原細見」みたいなエッチで退廃したものだったのでしょう。
李禎は他にも多くの詩や文章を書いているが、「剪灯余話」はほんとにひどい本だし、よく話題になる「元末・至正の歌姫たちに捧げる歌」は(内容はともかく)これも以前の人が作ったものを完全に真似しているだけだ。何も書かなければよかったぐらいである。
余計なことをしてはいけませんね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明・葉盛「水東日記」巻十四より。余計なことをして怒られたりしないようにしましょう。雑談を「風通しがいい」と言ってくれる職場ならいいですけどね。
コメントを残す