1月1日(木)・・・三重県明和町の大庭神社。付近は南北朝期に南朝側で活躍した北畠一族の佐田氏の居館があった。佐田氏は北畠本家滅亡の三瀬館陥落後、織田(北畠)氏に仕えず毛利氏を頼ったという。

このあと付近の神社合祀の跡地を見学して周りました。式内社をこんなに簡単に廃絶してしまうのだから、その破壊のエネルギーはすごいです。肝冷斎が「廃仏毀釈型民衆運動」と名付けるものの一つなのであろう。
1月2日(木)・・・三重県伊勢市御薗町西方寺に行ってみる。関係者のみなさん、ありがとうございました。

このお不動さんはすばらしい。
1月4日(土)・・・本日は正月の間に鈍った体を鍛え直さねばならん。
〇板橋区立植物園 ・・・ 冬場でほとんど何もなかったです。

花も紅葉もなし。ツバキだけ咲いてました。
〇そのあと、年賀を兼ねて戸田のネコを襲撃。

おめでとうございます!

おめでとうございます。

死んでいるのではありません。しりたたきによりごろごろニャンに。不思議なのは「ごろごろ」しはじめると勝手にこすりつけて気持ちよくしているのに、それをしはじめるのにしり叩きが要るようで、「ごろごろ」から立ち直るとすぐにしり叩きを要求し、また「ごろごろ」する、の繰り返しである。
ほかに一匹見かけましたがすぐに逃げて行ったので、今年の年賀はこの二匹だけです。

地域ネコにもいい年だといいですね。でもどうかな。
1月5日(日) ・・・ 年末に引き続き、神奈川宿を調査。
〇金毘羅宮大綱神社 ・・・ ハマの漁師たちの信仰が篤かったそうです。

大テング伝説もあるそうですが、この鳥居のこちらから見て右側あたりに、東海道一里塚があったそうです。
〇台場跡 ・・・ 勝海舟が設計したという万延年間~明治30年代まであった神奈川台場はほとんど何も残っていません。石垣が少しある、ということですが、現在再開発の工事中。この碑は本来の台場からは離れたところに建てられているようです。

よく見ると、柵替わりに引き込み線の枕木と思われるものが使われています。台場跡は大正から昭和にかけて、東高島駅(貨物駅・現在もあります)の引き込み線があったそうです。
〇浦島寺 ・・・ フランス領事館跡でもあります。

浦島太郎が竜宮でもらってきたという浦島観音さまがご本尊です。その碑の裏にある白いのがフランス領事館跡地の碑です。
浦島太郎はこの近くの浦島町の生まれで、おやじは浦島太夫。故あって丹波で漁師をしていて竜宮城に行き、帰ってきてこの神奈川の地に戻ったのですが、父母が死んでからもう300年が経っていたという。そこで、父・浦島太夫の墓のあったこの寺(淳和天皇勅願寺だという)に浦島観音を預けて、またいずことも知れず旅立ったという。

浦島観音を祀る観音堂です。左側の石碑は天明年間に建てられたもので、浦島太夫の墓と浦島太郎の生前の碑がこの寺にある、と書いてあります。探してみたけどしろうとにはわかりませんでした。

観音堂の扉にある観音さまの写真。カメの甲羅に乗っています。向かって左側が乙姫さま像、右は衣冠束帯の浦島太郎像。衣冠束帯には度胆をぬかれる。

天明年間の碑の裏をみると、発願したのはほとんど女性(ばばあであろう)だということがわかります。〇〇屋、と書いてあるので商人なのでしょう。
〇正蔵院 ・・・ 東叡山の末寺という扱いで、将軍家の御庇護により江戸初期に出来たようです。もとは神宮寺として境内であった熊野神社もかなりでかい。住職は院内の梅の一枝をとって、毎年正月に江戸城に届ける儀礼があったという。
幕末維新期には宣教師宿舎となったよし。

関東大震災の時に避難所になったそうで、大震災被災者の慰霊塔がありました。そのころには露台大仏があった模様。
裏手に「御殿石」という岩があったようです(古代の礎石かも)が、いまは京成やJRが走っていて、もう跡形も無いみたいです。
〇笠のぎ稲荷 ・・・ 神威が高く前を通る者は自然と笠が脱げた、というのでもとは笠脱ぎ稲荷と称したとか。線路の向こうの稲荷山にあったようですが、明治期に宿内に遷座したようです。

梵字の板碑がありました。これも稲荷山から移築した模様。
〇オランダ領事館跡 ・・・ このあたりまで神奈川宿のようです。

お寺と土居があったようですが、お寺は無くなっています。
〇浦島町(浜町) ・・・浦島太夫・太郎親子はここの出身だというのですが・・・。

京浜地区に現存する唯一の漁師町、といわれる浜町(子安漁港)。町の通りも漁師町らしく、家がぎっしりつと密集しています。

町中にある「浦島太郎足洗の井」。このへんで生まれたそうです。
いろいろためになりました。
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