曲則全(曲なればすなわち全なり)(「老子」)
年末は、少し不気味な老子的言語空間で終わりたいと思います。

「おれたちも十二支の中では不気味な方だロン」「生態的に仲良しでにょろん」
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曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新、少則得、多則惑。
曲なれば全、枉なれば直、窪(あ)なれば盈、敝なれば新、少なれば得るも、多なれば惑う。
この「曲」は単に「曲がっている」ではなく、あちこちにへこみや欠けがあって完全なものではない、という意味です。「枉」は「枉がる、曲がる」。また、それぞれの「A則B」の後ろに「ことができる」を加えるとわかりやすい(と注釈にあります)。
欠けている部分があるから、完全になる(ことができる)。
枉がっているから、真っすぐになる(ことができる)。
くぼんでいる部分があるから満杯に広がる(ことができる)。
古くなって破れているから新しいものになる(ことができる)。
少ないから増やそうとする。
だが、多いと(減ってしまうのではないかと)混乱してしまう。
不健康な生活があるから健康管理できる?のかも知れません。
これ(足らないと完全になれる、足りているとダメになる)が世界のルールなのだ。
是以聖人抱一、為天下式。
是を以て、聖人は「一」を抱き、天下の式と為る。
このルールを前提にして、偉大なお方は「あれ」を自分のものとし、天下の模範となるのである。
「一」を「あれ」と訳してみましたが、「あれ」は「道」のことだ、という注釈があります。
天下の模範とはどういうものか。
不自見、故明。不自是、故彰。不自伐、故有功。不自矜、故長。夫唯不争、故天下莫能与之争。
自ら見(あら)われず、故に明なり。自ら是とせず、故に彰らかなり。自ら伐(ほこ)らず、故に功有り。自ら矜(ほこ)らず、故に長ず。それただ争わず、故に天下にこれと能く争うもの莫(な)し。
自分から人前に出てこない。だからこそ(誰の手柄か)明瞭である。
自分から正当化しない。だからこそ賞賛される。
自分から手柄を指摘しない。だからこそ功績有りとされる。
自分から威張らない。だからこそ長く評価され続ける。
とにかく人と競争しない。だからこそ、天下に彼と競争できる者はいなくなるのだ。
ということですから、
古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而帰之。
いにしえのいわゆる「曲なれば全なり」とは、あに虚言ならんや。誠に全にしてこれに帰するなり。
古代の人の言葉、「欠けている部分があるから完全になれる」というのは、どうしてウソであることがあろうか。本当に完全になって、そこ(道)に帰っていくことができるのじゃ。
老子よりさらに古代の人の言葉だったんですね。
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「老子」第二十二章。「なんじゃこれ?」と思ったと思います。わたしも思いますが、ガマンして「なるほどなあ」と納得・・・してみましょう。これからどんどんいいことあるかも。
去年今年つらぬく棒のごときもの (高浜虚子) (←これも「なんじゃこれ?」ですよね)
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