12月27日 中盛りを食ったのに何故腹苦しいのか

腹膨如鼓(腹膨(ふく)らみて鼓の如し)(「墨余録」)

今日も食った食った。質より量だ。腹が苦しいぐらい食うことが、豊かということだ。

カッパや我々は、目の前にあるものは毒があっても食うように教えられているのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・

清の終り頃のことですが、浙江の医家・張麟祥といえば名の通った名医で、礼金は一日に数十金は下らなかった。このひと、食べ物についてたいへん贅沢で、その盛んなること王侯貴族以上とまで称されたのである。

一日、出見肆有河豚、責問庖丁何不市。庖謂此似越宿物、或不宜食。

張は怒鳴った。

此我素嗜、爾何知。

専門家の意見を容れなかったのです。古代の聖人はすべてを知っており、その聖人の教えを理解している自分たちが一番物事を知っている、しもじもは何も知らんからのう、というチャイナの知識人らしい言動です。

料理人はすぐさま市場に出かけ、六匹を得て、帰ると急ぎ煮込んで、張の前に並べた。

張呼弟与子同食、食時極口称美、独尽一器。

三人で六匹を分けたのですから、一つの器には二匹入っていたのでしょう。

弟と子は、料理人が目配せをするので、少し箸をつけただけであった。

有頃、子覚唇上微麻、以告張、張曰、汝自心疑耳。我固無他也。

張は駕籠(「輿」)に乗って、予約されていた往診に出かけた。人気医なので何人も掛け持ちです。

診至第五家、忽謂輿夫、速買橄欖来。

かごかきがオリーブの実を買ってくると、奪うようにして嚼みはじめた(油脂分を摂って吐瀉しようとしたのであろう)が、

初尚能嚼、頃之、口漸不能張。

顔面が麻痺してきたのです。

輿夫急舁帰、入門但呼麻甚。扶坐椅上、僅半時許、気絶矣。

死んだのである。

初死、面如生、旋聞腹鳴如雷、遍体浮腫、色漸如青靛、継而紅、継而黒、則七竅流血焉。

これは、同治丁卯(六年。1867)の二月三日のことであったという。

なお、

弟与子食幸不多、張帰時、已呑糞水、故得不死。

また、張は、弟と子があまり食べなかったので、余りを親類の同嗜者(フグぐるめ)におすそ分けしていた。このひと、

時正欲食、聞張耗、即命棄去。

ああよかった。しかし、これを、

工人某、曰、生死数也。食何害。

と言ってひそかに拾って帰り、

食且尽。

稍頃、自覚舌如針刺、口漸収小、知有異、急自飲便壺中溺、飲已、大吐、遽昏絶。

閲二日始醒。時有一猫、又食工人之余、即腹膨如鼓、死。

職人はほとんど食いつくしていたはずなので、骨とか出汁とかが残っていたのでしょう。

ああ。

人奈何以口腹易躯命哉。若張者、亦可以監矣。

・・・・・・・・・・・・・・・・

清・毛祥麟「墨余録」巻六より。「ネコちゃんはかわいそうだけど、弟と子と親類と職人某は助かったんだ、よかったなあ」と口に出して言ってみましょう。心の片隅では「ち、大騒ぎの割りには一人と一匹だけか」なんて思ったかも知れませんけど、思ってませんよね。私は思ってません。
科学的には、美味いものは危険だということがわかります。不味いものをたくさん食べているのが、我々には一番適正なのかも。

ホームへ
日録目次へ

コメントを残す