腹膨如鼓(腹膨(ふく)らみて鼓の如し)(「墨余録」)
今日も食った食った。質より量だ。腹が苦しいぐらい食うことが、豊かということだ。

カッパや我々は、目の前にあるものは毒があっても食うように教えられているのだ。
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清の終り頃のことですが、浙江の医家・張麟祥といえば名の通った名医で、礼金は一日に数十金は下らなかった。このひと、食べ物についてたいへん贅沢で、その盛んなること王侯貴族以上とまで称されたのである。
一日、出見肆有河豚、責問庖丁何不市。庖謂此似越宿物、或不宜食。
一日、出でて肆を見るに河豚有り、庖丁に何ぞ市(か)わざるかを責問す。庖、これ越宿の物のごとく、或いは食らうべからず、と謂えり。
ある日、市場で店を覗いてみたところ、フグがあったので、お抱えの料理人に、なぜ買って来ないのか責め訊ねた。料理人は「あれは一晩おいたものと思われます。あんまりお食べになるようなものではございません」と言った。
張は怒鳴った。
此我素嗜、爾何知。
これ我もとより嗜(たしな)めり、爾何をか知る。
「なにを言っているか。これは昔からわしが大好きなものじゃ。おまえに何がわかるというのか」
専門家の意見を容れなかったのです。古代の聖人はすべてを知っており、その聖人の教えを理解している自分たちが一番物事を知っている、しもじもは何も知らんからのう、というチャイナの知識人らしい言動です。
料理人はすぐさま市場に出かけ、六匹を得て、帰ると急ぎ煮込んで、張の前に並べた。
張呼弟与子同食、食時極口称美、独尽一器。
張、弟と子を呼びて同食し、食時には口を極めて美と称して、ひとり一器を尽くす。
三人で六匹を分けたのですから、一つの器には二匹入っていたのでしょう。
張は、弟と子どもを呼んで一緒に食べた。食べている時は、口を極めて「美味い、美味い」と称賛し、彼だけは一皿二匹を食べ尽くした。
弟と子は、料理人が目配せをするので、少し箸をつけただけであった。
有頃、子覚唇上微麻、以告張、張曰、汝自心疑耳。我固無他也。
有頃にして、子、唇上に微しく麻するを覚え、以て張に告ぐるに、張曰く「汝、自心に疑うのみ。我、もとより他無し」と。
しばらくして、子どもは、唇に少ししびれを感じて来たので、張にそう言った。すると、張は、
「おまえは自分でびびってそう感じているだけじゃ。わしは何とも無いぞ」
と言った。
張は駕籠(「輿」)に乗って、予約されていた往診に出かけた。人気医なので何人も掛け持ちです。
診至第五家、忽謂輿夫、速買橄欖来。
診ること第五家に至るに、忽ち輿夫に謂う、「速やかに橄欖(かんらん)を買い来たれ」と。
診察して五番目の家まで来たとき、突然、駕籠かきに言った。
「急いでカンラン(オリーブ)の実を買ってきてくれんか」
かごかきがオリーブの実を買ってくると、奪うようにして嚼みはじめた(油脂分を摂って吐瀉しようとしたのであろう)が、
初尚能嚼、頃之、口漸不能張。
初めなおよく嚼むも、頃之(しばらく)して、口漸く張る能わず。
はじめはむしゃむしゃとかみ砕いていたが、しばらくすると、だんだんと口が開かなくなってきた。
顔面が麻痺してきたのです。
輿夫急舁帰、入門但呼麻甚。扶坐椅上、僅半時許、気絶矣。
輿夫、急ぎ舁きて帰るに、門に入るもただ「麻甚だし」と呼ぶのみ。扶けて椅上に坐せしむるに、わずかに半時ばかりにて、気、絶せり。
駕籠かきは大急ぎで家に帰ったが、門に入るとただ「非常にシビレる~」と叫ぶばかりであった。助けて長椅子に座らせたが、ほんの一時間足らずの間に意識を失ってしまった。
死んだのである。
初死、面如生、旋聞腹鳴如雷、遍体浮腫、色漸如青靛、継而紅、継而黒、則七竅流血焉。
初め死するに、面生くるが如く、旋(たちま)ち腹の鳴ること雷の如きを聞き、遍体に浮腫し、色ようやく青靛(せいてん)の如く、継いで紅、継いで黒、すなわち七竅に流血せり。
死んですぐの時は、顔はまだ生きているかのようで、おなかがカミナリのようにごろごろ鳴っているのが聞こえていた。やがて、体中にむくみが出始め、体色はだんだんと紺青になり、継いで赤くなり、継いで黒ずみはじめ、その時になって、七つの穴(両目、両耳、両鼻、口)からどろどろと血を流し始めた。
これは、同治丁卯(六年。1867)の二月三日のことであったという。
なお、
弟与子食幸不多、張帰時、已呑糞水、故得不死。
弟と子、食らうこと幸いに多からず、張の帰りし時には、すでに糞水を呑み、故に死せざるを得たり。
弟と子は、食べた量が幸いに多くなかったし、張がシビレて家に帰ってきたころには、すでにフグ毒の特効薬である糞尿水を飲んでいたので、死なずに済んだ。
また、張は、弟と子があまり食べなかったので、余りを親類の同嗜者(フグぐるめ)におすそ分けしていた。このひと、
時正欲食、聞張耗、即命棄去。
時にまさに食らわんと欲するに、張の耗せるを聞き、即ち命じて棄て去らしむ。
ちょうど食おうとしたその時、張が死にかけているという報せが入り、(さてはフグ毒か、と思って)すぐに家人に命じて棄てさせたので、無事であった。
ああよかった。しかし、これを、
工人某、曰、生死数也。食何害。
工人某、曰く、「生死は数なり。食らうも何ぞ害せん」と。
出入りの職人のなんとかというやつが、「生きる・死ぬははじめから運命として決まっているというではないか。(フグを)食ったところで害なんか無いだろう。(害があるなら、それは運命だ)」
と言ってひそかに拾って帰り、
食且尽。
食いてほとんど尽くせり。
ほとんど全部食ってしまった。
稍頃、自覚舌如針刺、口漸収小、知有異、急自飲便壺中溺、飲已、大吐、遽昏絶。
稍頃、舌の針刺せるが如く、口のようやく収小するを自覚し、異有るを知りて、急に自ら便壺中の溺を飲み、飲み已みて大いに吐きて、にわかに昏絶せり。
ややあって、舌が針で刺されたような痛みを覚え、口が開かなくなってきたので、「これはヤバい」と知って、急いで部屋にあった「おまる」の中の自分のおしっこを飲んだ。飲み切ったところで大いに吐瀉し、そのまま意識を失ってしまった。
閲二日始醒。時有一猫、又食工人之余、即腹膨如鼓、死。
二日を閲して始めて醒む。時に一猫有りて、また工人の余りを食らい、即ち腹鼓の如く膨らみて、死せり。
それから二日間昏睡していて、なんとか意識を取り戻した。その時、一匹のネコが、これまた職人の残り物を「美味そうでニャン」と食ってしまい、すぐに腹が太鼓のように膨らんで、死んでしまったのであった。
職人はほとんど食いつくしていたはずなので、骨とか出汁とかが残っていたのでしょう。
ああ。
人奈何以口腹易躯命哉。若張者、亦可以監矣。
人、奈何(いかん)ぞ口腹を以て躯命に易えんや。張のごとき者は、また以て監(かんが)うるべし。
人間、どうして、口と腹のために、全身と命を棄てるなどということがあろうか。張のようなやつは、やはり(反面の)鏡として考えるべきであろう。
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清・毛祥麟「墨余録」巻六より。「ネコちゃんはかわいそうだけど、弟と子と親類と職人某は助かったんだ、よかったなあ」と口に出して言ってみましょう。心の片隅では「ち、大騒ぎの割りには一人と一匹だけか」なんて思ったかも知れませんけど、思ってませんよね。私は思ってません。
科学的には、美味いものは危険だということがわかります。不味いものをたくさん食べているのが、我々には一番適正なのかも。
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