惟黒与白(ただ黒と白のみ)(「幽夢影」)
今夜も寒いです。雪国はもっと寒く、もう白と黒だけの世界なのでしょう。やる気なくなりますよね。

白と黒だけだと真実がより浮き出して見えるではありませんか。
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五色有太過、有不及。惟黒与白無太過。
五色には、はなはだ過ぎたる有り、及ばざる有り。ただ黒と白のみ、はなはだ過ぎたる無し。
「老子」第十二章に
五色令人目盲。
五色は人の目をして盲(めし)いせしむ。
赤、青、黄、黒、白の五つの色は、ひとの目をくらませ(て真実を見えなくし)てしまうのじゃ。
という言葉がありますが、
そのうち、青、黄、赤の三原色とそこから作られる色彩には、目をくらませるようなものがあるとともに、物足りないものもある。ただし、黒と白だけは、目をくらませるようなことがない。
目をくらませることのない黒と白こそが天地の正しい色なのである。派手な色に目をくらまされてはいけません。
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清・張心齋「幽夢影」第139則。
これに対して、「評語」が書き込まれます。
杜茶村:君独不聞唐有李太白乎。
君独り聞かずや、唐に李太白有るを。
茶村先生・杜浚は明末清初の金陵のひと。仕えず、遺民と称される。
我有絶糧、無絶茶。
我に絶糧有るも絶茶無し。
わしは、(清の新政府に抵抗して)食糧を絶って自殺してもいいが、お茶を絶つわけにはいかんのじゃ。(なので生き抜いておく。)
の名言があります。
張心齋先生、あんただけじゃよ、唐に李「太白」(はなはだ白すぎて目をくらませる)がいたのに気づいておらんのは。
江含徴:又不聞、玄之又玄乎。
また聞かずや、玄のまた玄を。
江之蘭、字・含徴、香雪斎と称す、安徽のひと、医に詳しく、張心齋の友人、「幽夢影」の跋語を書いた。
また、「老子」第一章の中に「玄のまた玄、衆妙の門」(暗黒の中でもさらに暗黒、もろもろの不思議なものの出でくるところ)という言葉があるのにも気づいてないのでは?
以上、白にも黒にも「目をくらませるような場合もある」と言ってます。
尤悔庵:知此道者、其惟奕乎。
この道を知る者は、それこれ奕(えき)なるのみか。
尤侗、字・同人、悔庵と号す、明末清初の江蘇・長洲のひと、康熙帝のとき博学鴻儒の試に応じ、明史の編集に加わる。後、帰省するが、康熙帝の巡幸のとき詩を献じ、翰林に抜擢された。家に女楽(女性楽団)を養った風流の人としても名高い。
この(黒と白の)道を知っているのは、ただ囲碁だけであろうか。
最後に、ビッグネームが書き込んでいます。もちろん、誰かのいたずらですが、
老子:知其白、守其黒。
その白を知りて、その黒を守れ。
「老子」第二十八章にこうあります。
知其白、守其黒、為天下式。為天下式、常徳不忒、復於無極。
その白を知りて、その黒を守れば、天下の式と為る。天下の式と為れば、常徳忒(たが)わず、無極に復す。
「老子」の言葉は古代の秘密結社の合言葉なのか、何やら真の意味を隠した暗号のようにも見えるのですが、とりあえず解釈をしてみると、
世界の表面に見えた知識を知って賢者となり、世界の裏面の秘密を体得して愚者として振る舞えば、天下のひとびとの模範となるであろう。天下のひとびとの模範となれば、存在の根源に恒常的にある力(「常徳」)から離れることがないから、根源の無に帰ることができる。
なんじゃこれ。・・・「知白守黒」という老子思想の根幹を為す有名なところらしいので、百回ぐらい、なんとか理解できるようにつなぎ合わせて考えてみてください。
ということで、老子さまの評語は、
表面的な知識(「白」)を知って、裏面の秘密(「黒」)を体得しなされ。(わしのことばを題材にしてくれてありがとう。おまえさんたちも、腹の底では満州族に不満でも、表面では権力に従っていくことじゃな。面従腹背じゃ、うっしっし)
というぐらいの感じでしょう・・・か。面従腹背だとやる気なくなりますよね。この題名だけ見たら自分のことかと思ってしまいました。
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