12月21日(土) ・・・ 冬至ですが、沖縄なので暖かい。その上ホテルなんで暖房まで効いているんです。明日帰京して写真を補充してこのページをアップするころには、動脈収縮してたいへんなことになっているのでは。(→寒いです。)
本日は、読谷村の東端にある字「伊良皆」を歩いてみました。戦前の伊良皆は現在は米軍が接収しているので、住民はみな国道58号線の西側に住んでいます。ただし、戦後の一時期から、旧伊良皆集落近辺は「黙認農耕地」となっているので、一部に耕作地が広がり、住民は出入りが黙認されています。
住民がいないため、耕作地以外は自然のままに遺されており、また地域信仰の核になる施設(カーとかモーとか)もまだ生きた聖所として生きている、というたいへん尊い地域なんです。
〇殿内火の神 ・・・ 火の神さまの殿内(どんち)。

コンクリートの祠の向こう側から見ると三石などがわかります。
〇前のカー ・・・ 村落の手前の方の泉です。村落は上のカーの方に向けて奥になっていく形態だったはず。

中央の祠の向こう側にガーがあって、まだ水がこんこんと湧いています。
〇ウフガー ・・・ ここは大自然が再生しつつあるところのようです。とてもすばらしい状態に戻っていました。畏れおおいので写真無し。
〇唐のカー(ウブガー) ・・・ ウブガーなので子どもが生まれた時のなで水や正月の水などはここで採取したのでしょう。

この斜面を降りて右手の方にガーがあります。
〇ユナサモー ・・・ 祭祀のときなどにここで何かをしたはず。

祠のまわりにあまり余地がないので、宴会みたいなこと(モーアシビ)はできなかったと思います。

気持ちいい天気です。本土にいて凍えているやつらは哀れでさえある。
〇上ぬカー ・・・ この水は、現在も飲用水に使われており、今も祭祀をしているそうです。

実に清浄な空間です。左手の山が佐敷王統のお墓山で「佐敷山」と称するそうです。
〇尚巴志王の墓 ・・・ ここが伊良皆の聖所(ウタキに該当)だと思われます。尚巴志は御承知の通り、三山を統一した佐敷王統の中山王、琉球国王で、首里に立派なお墓があったのですが、五十年ほどでいわゆる金丸政変によって第二尚氏王統に移ると、遺骨をいろいろされるといけないので、佐敷王統の子孫が遺骨を持ってこの地に隠れ、山中に墓を作ったのだ。隠し墓なのでなかなかたいへんなところにあります。

第一代・第三代・第四代陵墓とあります。第二代は諸事情により持ってこれなかったようです。この碑のところから崖を登った上にお墓があります。
〇旧読谷村役場跡 ・・・ ちょっと曇ってきました。黙認耕地の中にあります。いまは井戸跡と収穫を祈る「グーフンニー祠」があるだけです。「グーフンニー」とは何ぞや。

右側の四角いのが井戸跡。

これがグーフンニー祠。グーフンニーの手がかりは無し。
王朝時代に王府の「番所」があった読谷の中心地・喜名に行ってみます。
〇喜名観音堂 ・・・ 王府時代に金武の観音様を分祠した(ここらへん琉球神道です)そうで、沖縄戦のあとも木造の堂があったそうですが、1960年代にコンクリート造りに建て直したそうです。沖縄戦で堂を覆うようにあった松の木は消失。隣の土帝君祠も本尊の土帝君は戦争で失われたよし。

右手が観音堂、左手が土帝君祠です。観音堂にはいつの間にか不動明王を祀ったひとがいるらしいので、それは今は公民館で預って、心当たりのひとは取りに来てくれ、と書いてありました。写真を見ると色付きのかっこよさそうなやつです。
〇喜名古窯跡 ・・・ 王朝時代に焼いていたそうです。

ガラス越しに中が見られるようにしてくれているようなのですが、ガラスが曇っていて中が見られません。まあいいか。
〇読谷山村役場(復元) ・・・ 道の駅ですが、物販はありません、と、係のひとが繰り返してました。

いい雰囲気です。もともとは民家だったのを、村民の労役で移築して、上にある写真の村役場跡地に立てたらしい。これは復原です。物販してほしいですね。
以上。午後は曇ってきて、北西風(ミーニシ)が強くなって少し寒くなってきました。
那覇に戻って、いつもの首里ネコ攻撃に向かいます。

どこほっつく歩いとったんニャ!はやくしりたたけ!
ほんとにこのあと、爆弾突撃、しりたたき強要、かみつきなどの暴力ネコに。
クリスマス前なので、焼かつをなど高価なエサも献上した。にゃんこもよいお年をニャ。
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