龍魚生之(龍魚これに生ず)(「荀子」)
龍は冬至の日には、淵の底でじっとしているんです。やがて天に昇る時節が来ることを確信しながら。でも科学的には、龍なんていないんですよ。

ほんとはいるんでりゅう。本人が言っているんだから間違いないんでろん。
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水淵深廣、則龍魚生之。
水淵深く広ければ、すなわち龍魚これに生ず。
川の淵が深く広ければ、そこに龍や魚が生まれるであろう。
山林茂盛、則禽獣帰之。
山林茂り盛んなれば、すなわち禽獣これに帰す。
山の林が盛んに繁茂していれば、そこに鳥や獣が集まるだろう。
以上の龍魚と禽獣は譬喩です。従って、龍がいなくても以下は成り立つはず。
礼儀修明、則君子懐之。
礼儀修まり明らかなれば、すなわち君子これを懐(おも)う。
礼儀が修まり賢明な国があれば、よき人たちはそこに憧れることだろう。
故礼及身而行修、礼及国而政明。
故に、礼の身に及びて行い修まり、礼の国に及びて政明らかなり。
というわけで、礼が個人の体に行きわたると行動が立派になり、礼が国に行きわたると政治が賢明になる。
能以礼扶身、則貴名自揚、天下順焉。令行禁止、而王者之事畢矣。
よく礼を以て身を扶くれば、貴名自ずから揚がり、天下順わん。令行われ禁止まり、而して王者の事畢(おわ)りぬ。
「礼」によって自分を助けると、名声がおのずと上がって、(究極的には)天下が従ってくれることになるであろう。やってくれと言った命令がたやすく行われ、やめてくれと言った禁止事項がたやすく行われなくなる。こうなれば、理想の権力者である「王者」の完成である。
例えば、「消費税を20パーセントにせよ」といえばなるんです。「赤字国債は出すな」といえば出さないんです。ということでしょうか。えらいひとたちはどういう議論をしているのかな?
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「荀子」致士篇より。荀子のいう「礼」は「礼儀作法をしつけてますの、おほほほ」という末節のことでなくて、しきたりとか慣習法とか文化とか社会規範とか、かなり広い意味です。それを荀子は「後王」(現在、権力を持つ王者)が制定すべきだ、と言ってます。まことに下剋上の時代の通説でした。この方向性を「現在の権力者」の側から利用すると、一変して「法家」思想になります。法家は人民や官吏を君主の下で競争させ、君主のために働かせる、その技術として罰則を伴う「法」を使うのでした。同様に、競争の世界観である資本主義を資本の側から利用してみたら、一変して「新自由主義」に?
まあいいや。冬至ですから、本日、衆陰の中に明るく暖かな一陽が来復するはず。やがてそのうち万物の生成する春が来るであろう(か?)。モーターの話も気になりますね。
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