12月18日 偶然に頼っていてはダメだ

偶然耳(偶(たまたま)然(しか)るのみ)(「後漢書」)

確率的には、何億人に一人かは、こういう人もいておかしくない(ホントに?)。

平和を愛する諸国民を信頼しているうちに、偶然、平和が維持される、ということがあるであろうか。

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前漢の末ごろ、皇族の一人に劉昆、字・桓公という人がいて、郷里の山東・陳留で儒学の学校を開いていた。弟子が多数に上ったので、王莽に謀反を疑われ、親族もろとも獄に繋がれて「さあ、これから拷問だ」という時に王莽が滅亡したので釈放され、新末の混乱を避けて河南の負犢山の山中に隠棲していた。

建武五年(29)、後漢を建てた光武帝がその名を聞き、ただちに江陵の県令に任命した。

時県連年火災。昆輒向火叩頭、多能降雨止風。

「多く」とあって「常に」でないところが、リアリティがあります。

次いで弘農の太守となった。
当時、弘農の近辺は

駅道多虎災、行旅不通。昆為政三年、仁化大行、虎皆負子度河。

こんな立派な太守様に迷惑をかけてはいけない、と思ったからであろう。

建武二十二年(46)、都に召喚されて光禄勲(大臣)に任命されたが、この時、

詔問昆曰、前在江陵、反風滅火、後守弘農、虎北度河。行何徳政而致是事。

昆対曰偶然耳。

「ぷぷ」「くすくす」「いっひっひ」

左右皆笑其質訥、帝歎曰、此乃長者之言也。顧命書諸策。

その後、

三十年、以老乞骸骨、詔賜洛陽第舎。中元二年卒。

辞職することを「骸骨を乞う」と言います。死ぬまで国家のために尽くすべきなので、辞めさせてもらうときにはもう骸骨しか残っていないはずなので。

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「後漢書」巻七十九上「儒林列伝」より。全部偶然だったのです。「ホントか?」と訊いてみたくもなりますが、もっと変なこと不思議なこと無茶なことも、国家や皇帝やえらい学者が言ったことはすべて「いや全くだ、そのとおり」と受け入れてきたのですから、これもホントに決まっています。長いチャイナの歴史の中には、これぐらい偶然が続く人もいたのでしょう。

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