偶然耳(偶(たまたま)然(しか)るのみ)(「後漢書」)
確率的には、何億人に一人かは、こういう人もいておかしくない(ホントに?)。

平和を愛する諸国民を信頼しているうちに、偶然、平和が維持される、ということがあるであろうか。
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前漢の末ごろ、皇族の一人に劉昆、字・桓公という人がいて、郷里の山東・陳留で儒学の学校を開いていた。弟子が多数に上ったので、王莽に謀反を疑われ、親族もろとも獄に繋がれて「さあ、これから拷問だ」という時に王莽が滅亡したので釈放され、新末の混乱を避けて河南の負犢山の山中に隠棲していた。
建武五年(29)、後漢を建てた光武帝がその名を聞き、ただちに江陵の県令に任命した。
時県連年火災。昆輒向火叩頭、多能降雨止風。
時に県は連年火災す。昆、すなわち火に向かいて叩頭するに、多くよく降雨して風を止む。
そのころ、江陵の町では、毎年火事が起こっていた。県令となった劉昆は、火事が起こると火に向かって土下座して、頭をがんがんと地面にぶつける礼を行った。
すると、たいていの場合、雨が降り出し、風も止んで火は消えるのであった。
「多く」とあって「常に」でないところが、リアリティがあります。
次いで弘農の太守となった。
当時、弘農の近辺は
駅道多虎災、行旅不通。昆為政三年、仁化大行、虎皆負子度河。
駅道に虎災多く、行旅通ぜず。昆、政を為すこと三年、仁化大いに行われ、虎みな子を負いて河を度(わた)れり。
宿場のある街道にも虎が出没し、その被害が大きくて、旅人が通過することができなかった。劉昆は三年間、誠実に政治を行ったところ、仁の徳化が大いに進んで、虎は子を背負って、黄河を渡って別の地域に移動していった。
こんな立派な太守様に迷惑をかけてはいけない、と思ったからであろう。
建武二十二年(46)、都に召喚されて光禄勲(大臣)に任命されたが、この時、
詔問昆曰、前在江陵、反風滅火、後守弘農、虎北度河。行何徳政而致是事。
詔して昆に問うて曰く、前(さき)に江陵に在りては風を反(かえ)し火を滅し、後に弘農を守りては虎、北に河を度(わた)れり。何の徳政を行いてかこの事を致す。
昆布に対して帝からじきじきにご質問があった。
「以前は江陵の県令をしていたときに、風を返し、火を消したと聞いている。後に弘農の太守をしていたときには、トラたちが北に向かって黄河を渡って行ってしまったという。いったいどういう徳のある政治を行うと、こんなことができるようになるのか」
昆対曰偶然耳。
昆、対して曰く、偶然(たまたま然る)のみなり、と。
劉昆は答えて申しあげた。
「それは、ぐ、ぐうぜんです。ぐうぜんそうなった、というだけでござります」
「ぷぷ」「くすくす」「いっひっひ」
左右皆笑其質訥、帝歎曰、此乃長者之言也。顧命書諸策。
左右みなその質訥を笑うも、帝歎きて曰く、「これすなわち長者の言なり」と。顧みてこれを策に書せんことを命ず。
帝の近臣たちはそのコトバを聞いて、質朴で口下手なのを笑ったが、帝だけは「ああ」と感激し、
「これは立派なひとでなければ言えるコトバではない」
と言って、後ろを振り向いて秘書官に今の言葉を記録するように命じた。
その後、
三十年、以老乞骸骨、詔賜洛陽第舎。中元二年卒。
三十年、老を以て骸骨を乞うに、詔して洛陽の第舎を賜う。中元二年、卒す。
建武三十年(54)、老齢を理由に辞職した。その際、帝からはみことのりを以て、洛陽の官舎をそのままプレゼントしてもらった。なくなったのは、建武中元二年(57)である。
辞職することを「骸骨を乞う」と言います。死ぬまで国家のために尽くすべきなので、辞めさせてもらうときにはもう骸骨しか残っていないはずなので。
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「後漢書」巻七十九上「儒林列伝」より。全部偶然だったのです。「ホントか?」と訊いてみたくもなりますが、もっと変なこと不思議なこと無茶なことも、国家や皇帝やえらい学者が言ったことはすべて「いや全くだ、そのとおり」と受け入れてきたのですから、これもホントに決まっています。長いチャイナの歴史の中には、これぐらい偶然が続く人もいたのでしょう。
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